<コラム>「嫌だ」と言える雰囲気を


「嫌でも黙って戦争に行かないといけなかった」

沖縄タイムス元記者の謝花直美さん[i]は、沖縄戦報道に長く関わってきた。私たちゼミ学生に向けた講話の中では、沖縄戦に行かざるを得なかった人々について話した。

沖縄での戦いが始まったのは1945年3月26日。米軍が慶良間諸島に上陸して日本で唯一の地上戦が沖縄で始まった。沖縄戦での県民の犠牲者は12万人以上。県民の4人に1人が亡くなったと言われている[ii]。

戦時下、沖縄県民は労働力や戦闘力として戦場に駆り出された。沖縄戦において一般住民の犠牲者が多い理由の1つでもある。(文=落合俊。トップの写真は、ゼミ学生に向けた講話で話す謝花直美さん/2023年9月20日、撮影=山田祐太)

 

がんじがらめになる人々の意識

沖縄の人々はなぜ反対の声をあげることができなかったのか。謝花さんは「人々の意識はがんじがらめになっていた」と話した。

1937年から始まった日中戦争が全面化する前あたりから、沖縄では戦争に対する緊張感が高まっていた。

たとえば、戦前の日本では天皇への忠誠心を植え付けるという目的のもと、当時「御真影」と呼ばれた天皇の写真が全国各地に「下賜」という形で配られていた。

沖縄では他府県よりも早く、1887年に御真影が下賜されていた。そして、1930〜40年代からは天皇が神格化・絶対化されていく中で、御真影は戦争動員における象徴的な存在となっていった[iii]

「少しずつ戦争に向かっていく中で、人々の意識はがんじがらめになっていった」。戦争が嫌とは言えない。当時の沖縄に住む人々の間には、そんな雰囲気が漂っていた。

 

暮らしの中で弱体化する教訓

沖縄戦では多くの犠牲者を出した。戦争を経験した人々が失ったものは計り知れない。

一方、それと同時に戦争を通して、「軍隊は住民を助けない」などのさまざまな教訓を得てきた。それらは失敗の歴史であり、二度と繰り返さないために、その教訓は戦後も伝え続けられてきたはずだ。

しかし謝花さんは、今、それらの教訓が沖縄の人々の暮らしの中で弱体化しているという。

2023年1月21日、弾道ミサイルの飛来を想定した避難訓練が那覇市で実施された。この時、訓練に抗議する市民グループと那覇市との間で対立が生まれた。

訓練2日前の1月19日付の沖縄タイムスには、市防災危機管理課の屋良剛課長のコメントが掲載された[iv]。そこでは屋良課長自身も母親から訓練について「何を考えているのか」と言われたことを吐露している。

「(市職員は避難訓練について)自分たちで決めることができない中、やらざるを得なかった」と謝花さんは話す。

やらざるを得ない。その思いが反対の声をあげられなくなる雰囲気を生む。それは戦前に「戦争は嫌だ」と言えなかった沖縄の人々の行動と同じではないか。このような雰囲気の中で「(人々が抱える)苦しみの声が出てこなくなるのが怖い」と謝花さんは危機感を募らせる。

 

自分の中の「嫌だ」を言えるように

沖縄戦に至るまでの歴史を学ぶことは、そのような戦争を二度と繰り返さないことにつながる。しかし今の沖縄、日本に生きる私たちは過去の戦争から得られた教訓を生かせているだろうか。

謝花さんは、今ある自由を後退させないためには、言葉を使うことが大切だと話す。人とのつながりの中で意見を言い合う。自分が嫌だと思うことを言えるような環境にする。

それが沖縄の戦前を生きた人々の経験を通して、今の自由を後退させないようにする道ではないだろうか。

 

来年から記者になる私が思うこと

2022年5月15日の沖縄返還50周年の記念日、私は辺野古にあるキャンプ・シュワブ周辺を訪れていた。テレビや新聞でもよく目にする『不屈 座り込み抗議』の掲示板がある場所だ。

掲示板のあるゲート前に着いた時には辺りは薄暗く、キャンプ・シュワブの明るさだけが際立っていた。「こんな異質な人工物が自分の生活の中にあったら、とても耐えられない」というのが私の抱いた印象だった。

その後、近くの集落にあるスーパーを訪れた。そこで店主を勤める男性は「座り込み抗議をしている人の中に地元住民は少ない」と語っていた。一方、その店で働く女性は「主人(店主)も根っこでは基地反対だ」とも話してくれた。

基地反対の思いがあるのに、なぜ地元住民が声をあげられないのか。そんな疑問を残したまま、その日は辺野古を後にしてしまった。

(キャンプ・シュワブとゲート前に立つ掲示板/2022年5月15日、撮影=落合俊)
(キャンプ・シュワブとゲート前に立つ掲示板/2022年5月15日、撮影=落合俊)

そして23年9月、私は再びキャンプ・シュワブのゲート前を訪れた。

その日の抗議活動の様子を見たあと、実際に抗議に参加した人たちから話を聞いていた。沖縄県内のうるま市や那覇市、そして他県から参加している人にも出会った。しかし、基地がまさに存在する辺野古に住んでいる人に出会わなかった。

「最初に活動を始めたのは地元の人たちだったが、活動していく中で分断が生まれた」と、座り込み抗議をする女性は話していた。

「近所付き合い、周りからの視線、米軍との経済的つながりなどの理由で活動に参加する人は徐々に減っていった」

対立する必要がない人々の間にも、対立が生まれ、次第に反対の声をあげづらくなる。謝花さんが話していた状況が、私の目の前に広がっていた。

米軍基地問題は、辺野古に生きる人々にとって生活の中にある問題だ。だから「声をあげたくても、あげられない」という諦めにも近い気持ちがあるように感じた。

私は来年から記者として働く予定だ。押し込められた状況で聞こえてくる小さな声にも耳を傾けられる。今の沖縄の声を聞き、そんな記者を目指したいと思った。

脚注

[i] 1962年生まれ 元沖縄タイムス、沖縄大学地域研究所特別研究員

[ii] 木村司(2015)『知る沖縄』、朝日新聞出版、p.158-168

[iii] 吉浜忍ほか(2019)『沖縄戦を知る事典 非体験世代が語り継ぐ』、吉川弘文館、p.134

[iv] 沖縄タイムス「那覇避難訓練『中止を』 ミサイル想定 市民抗議、市と面談」、2023年1月19日

 

このコラムは2023年9月のゼミ沖縄研修旅行をもとに作成されました。