120歳のサークル 早稲田大学雄弁会 激動の21世紀


早稲田大学雄弁会は、2022年で創立120周年を迎える。これまでに5人の首相を輩出し、「政治家の登竜門」「総理大臣養成クラブ」とも称される。その雄弁会の2002年以降の歴史は、従来語られぬままとなっていた。現役会員やOBへの取材を通じ、21世紀の雄弁会のあゆみを追った。(取材・文・写真=志田陽一朗)

トップ写真は、雄弁会の会旗。「寄贈者 元内閣総理大臣 小渕恵三令夫人」と書かれたリボンが付いている。小渕恵三は、昭和37年卒の雄弁会OBである=会員提供

はじめに

早稲田大学には、120歳のサークルが存在する。

 

早稲田大学雄弁会。建学の父、大隈重信が初代総裁を務めたサークルである。雄弁会は、2022年で設立120周年を迎える。これまでに5人の総理大臣を輩出し、出身の現役国会議員は13人を数える。「政治に関心を持つ若者の集まり」として、歴史と実績を持つ組織である。私も、2018年から2022年にかけて所属していた。

 

一方、近年の雄弁会には、世間からの注目度の低下が見られる。

現時点で最後の出身者総理大臣・森喜朗政権の終焉以後、その傾向は顕著である。「実力政治家を輩出する『早大雄弁会』の研究」(1988)や、「早大雄弁会―それぞれの人生劇場」(2001)といった雄弁会をテーマとした書籍が刊行されたのも、今となっては数十年前のことである。

さらに、雄弁会の特色である歴史にも、空白になっている部分がある。会のあゆみをまとめた「早稲田大学雄弁会百年史」が刊行されたのは、2002年の事である。それ以降の20年余り、つまり雄弁会の21世紀は、語られぬ歴史となっているのだ。

取材を進めると、この20年間で雄弁会は大きく変容してきたことが明らかになった。かつての雄弁会の組織形態や活動は、専門性・独自性の高さが特徴だった。20年という歳月を経て、それらは多様性や持続可能性を志向したものになってきている。

 

今回の取材では、雄弁会関係者のべ16名にインタビューを行った。また、会室に残された100点以上におよぶ資料を読み解いた。その中で、以下のグラフに示す3つの時代を見出し、それぞれの時代を経験した当事者に取材した。

 

3つの時代、取材対象者の在籍期間と、入学年度ごとの卒業会員数(筆者作成)

この記事では、雄弁会の何が、なぜ、どのように変わってきたのかを明らかにする。そこで得たものから「若者の政治関心」のゆくえを展望し、若者世代が今後直面しうる課題を提示する。

 

 

1章:激動の中で

雄弁会の概要

早稲田大学雄弁会の原点は、大隈重信と足尾銅山鉱毒事件にある。事件を受けた大隈は、東京専門学校(のちの早稲田大学)の学生を視察団として派遣した。これをきっかけに、1902(明治35)年、大隈を初代総裁に迎えて「早稲田大学雄弁会」が結成された。
雄弁会の活動の根幹とされているのが、「演練・研究・実践」である。発足時に制定された「早稲田大学雄弁会会旨」にある、「雄弁技術の演練と理論の研究と社会的実践とを通じて」という一節が、この由来となっている。この3つを軸とし、「真の雄弁家」になることを目指して、日々活動が行われている。

 

「早稲田大学雄弁会会旨」(画像:公式サイトより引用)
「早稲田大学雄弁会会旨」(画像:公式サイトより引用 *URLは参考文献に記載)

 

激動の21世紀初頭:関口慶太氏(平成12年入会OB)

昭和末期から平成中期にかけて、雄弁会は4人の総理大臣を輩出した。1998年から2001年にかけては、小渕恵三・森喜朗と、雄弁会出身の総理大臣が連続して誕生した。

こうした政治情勢の中で、雄弁会はどのような状況に置かれていたのだろうか。2000年代初頭は、雄弁会に注目が集まったと同時に、その後の歴史的空白が生じ始めた時代でもある。

 

弁護士の関口慶太氏は、2000(平成12)年に早稲田大学法学部に入学した雄弁会OBである。在籍中は幹事長を務め、新型コロナウイルス感染拡大前は年に一度、現役会員とOBをつなぐ懇親会を主催していた。21世紀初頭の雄弁会の様子を知るため、銀座にある事務所を訪問して話を聞いた。

 

OBで弁護士・一般社団法人国際経済外交総合戦略センター理事の関口慶太氏(2021年10月7日、氏の事務所にて筆者撮影)
OBで弁護士・一般社団法人国際経済外交総合戦略センター理事の関口慶太氏(2021年10月7日、氏の事務所にて筆者撮影)

関口氏は、今も現役の群馬県藤岡市議会議員である父を持つ。大学進学時には、「いずれは父のような政治家になりたい」という思いがあった。同時に、「早稲田と言えば雄弁会」というイメージを抱いてもいた。

入学式の当日、大隈講堂から出ると真っ先に、関口氏は学生会館内にあった雄弁会の会室を目指した[i]

 

この日、すなわち2000年4月2日の日本政治には、緊急事態が発生していた。この日未明、当時の総理大臣小渕恵三(昭和37年卒雄弁会OB)が、脳梗塞で緊急入院した。関口氏が式を終えて構内に出たまさにそのころ、官房長官の青木幹雄(昭和34年卒雄弁会OB)が病室で小渕と面会した。ここで、小渕は青木を総理大臣臨時代理に任命したとされる。4月5日には、森喜朗(昭和35年卒雄弁会OB)が首相に就任した。

小渕・森という総理大臣2人の出身組織として、メディアは雄弁会をさかんに取り上げた。そうした世間の注目もあり、会室には入会希望者が殺到した。この年の雄弁会は、「ただいま内閣占領中」というキャッチコピーを掲げていた。

 

2つの洗礼:「会内政治」と「激詰め」

当時の関口氏には、気になる事があった。入会希望者に比べ、上級生の少なさが目に付いた。「4年生はゼロ、3年生は2~3人、2年生は10人いるかいないかだった」。その理由を、関口氏は本人が「洗礼」と形容する経験を通じて知ることとなる。「会内政治」と、「激詰め」に触れたのである。

 

戦後の雄弁会には、政党さながらの派閥政治が存在した。特に、1980(昭和55)年卒業の世代によって、「三派体制」と呼ばれる構造が確立され、長く存続した。

左派を自称する「有末派」、右派集団である「山田派」、そして中道派としての「戸来派(中間派)」が、その構成だった。各派閥は、幹事長のポストや、雄弁会の名前を使ってイベントを開く権利である「名称使用権」、そして会室の利用をめぐって争った。こうした会内政治の中では、時に暴力を伴うほどの抗争が展開されていたことが、「百年史」にも記されている[ii]

会内政治は、政治抗争を通じて肉体と精神を鍛えるという目的で行われていた。冷戦が終結し、左派・右派といった単純な二項対立が成立しなくなったことで、90年代半ばには自然消滅したとされている。それでも関口氏の入学時には、その残滓(ざんし)が感じられたという。後に、会内での対立を原因として、1999年前後に大量の退会者が出たと知らされた。

 

「会室ノート」と呼ばれる、当時使われていた連絡帳。残存するノートのうち、「99年度前期」「99年度後期」と題されたもの(2021年12月5日、学生会館内の会室にて筆者撮影)
「会室ノート」と呼ばれる、当時使われていた連絡帳。残存するノートのうち、「99年度前期」「99年度後期」と題されたもの(2021年12月5日、学生会館内の会室にて筆者撮影)

こうした会内政治は、入会後の会員が経験するものである。そこに至る前の段階に、最初の関門が存在した。それが「激詰め」である。

「激詰め」は、雄弁会の伝統の一つとされていた。長い歴史の中で、「激詰め」は新入生の試金石としての役割を果たしていた。関口氏も、その伝統を肌で感じることとなった。

「激詰め」の口火を切るのは、「君の問題意識は?」「君はどうして雄弁会に来たの?」といった質問だった。新入生の答えに納得する上級生はまずいなかった。大抵の場合、こうした「議論」は上級生による一方的な詰問に発展した。最後は決まって、「馬鹿野郎!」「その程度で雄弁会でやっていけると思うな!」と、上級生が一喝した。

 

この年の入会希望者は、「百年史」によると300名を超えていた。[iii]しかし、4月の終わりになると、会室を継続的に訪れる新入生は20名ほどになっていた。その中に、関口氏も残っていた。

五月に入ると、入会希望者たちは「新歓合宿」への参加を求められた。この合宿は、入会のための登竜門とされるものだった。

 

2章:真剣勝負の4年間

雄弁会内には、「3大行事」と呼ばれるものがある。「合宿」、「弁論大会」、そして「総会」である。これらはその内容を変えつつ、今も残っている。このうち、新入生が最初に経験する行事が、新歓合宿である。

 

新歓合宿の衝撃

埼玉県本庄市には、早稲田大学の保有するセミナーハウスがある。関口氏が入会した年の新歓合宿は、ここで行われた。この年の合宿には、テレビ局の取材班が同行した。当時の雄弁会の勢いに注目したテレビ朝日「ニュースステーション」が特集を企画し、密着取材を行ったのである。

セミナーハウスに着くとすぐ、全員が一つの部屋に集合した。すると突然、上級生が「結団式!」と叫んだ。新歓合宿最初のイベントである、「結団式」の始まりを知らせる合図だった。

入会希望者たちは、ここで初めて「結団式」の存在を知らされた。「各自、問題意識と理想社会像、活動の抱負を語ってもらう。質疑応答の時間もとる。厳しくいくので覚悟するように」。淡々と内容が説明され、すぐに登壇者が指名された。演壇に背を向けて立たされ、最初の発表が始まった。

 

「ふざけるな!」

 

「そんな甘ったれた考えで、社会を変えられると思ってんのか!」

 

開始直後から、上級生総出の「激詰め」が始まった。怒号にも似た野次が絶え間なく飛んできた。発表者が口ごもると、上級生が背後まで詰め寄ることもあった。質疑応答が1時間以上続く者もいた。

すべての入会希望者が発表を終えるころには、深夜になっていた。「殴る蹴るといった暴力はなかった。それでも、プレッシャーはかなり強かった。ちょっと言葉では説明しきれない」。関口氏も、生まれて初めての経験に動揺していた。「夜中に逃げ出そうというような動きもあった。玄関から逃げると先輩にばれるからと言って、2階の窓から飛び降りようとするやつが出たりもした」。

何とか「結団式」を終えると、最終日に行う弁論発表の準備が始まった。サポート役の2年生との、徹夜の議論が続いた。最終日を迎えるころには、皆疲労と焦燥で顔が変わっていたという。この弁論発表を乗り切ると、晴れて入会を許された。その後、上級生によって、模範弁論の披露と「雄弁会小史」[iv]の解説が行われた。

 

「百年史」には、「『原点』は新歓合宿にあり」と題された、この年の新入生世代による記述がある。

 

「私はこの雄弁会小史にもう一つ忘れられない思い出がある。責任の重さに私が震えていた隣で涙を流していた者がいたのだ。(中略)そう、涙の志士の名は、’01年度後期幹事長、関口慶太」[v]

 

 

「新歓合宿は厳しかったけれど、そこが面白かった」と関口氏は語った。本気で議論する空間と尊敬できる同期や先輩を、魅力に感じていた。

「政治に触れるだけでいいなら、政党の学生部にでも入れば良かった。でも、それはあまり魅力的だと思わなかった。雄弁会の学生たちは、興味関心も問題意識も、進路希望も様々だった。そこが面白かった」

関口氏の言葉通り、雄弁会の卒業生は様々な業界に進んでいった。中央官庁やマスメディアに進んだ者から、商社に入ったり、起業したり、医学部に入り直して医者になった者もいた。

 

21世紀卒の国会議員:小沼巧参議院議員(平成16年入会OB)

21世紀の雄弁会卒業生には一人、現役の国会議員がいる。茨城選挙区選出の参議院議員、小沼巧だ。

 

「百年史」を手にする小沼巧参議院議員(2021年12月6日、参議院議員会館にて筆者撮影)
「百年史」を手にする小沼巧参議院議員(2021年12月6日、参議院議員会館にて筆者撮影)

小沼氏は2004(平成16)年、政治経済学部政治学科に入学した。入学した時点で、政治家という将来像をおぼろげに描いていた。「政治家を目指すならば行かねばなるまい」という気持ちで、雄弁会を訪ねたという。そこで出会ったのは、厳しい上級生と、常に本気の議論であった。

「入学したての自分にも容赦がなかった。一瞬で叩きのめされた」。新歓合宿では、飛び交う野次や怒号に圧倒された。ひたすら想いや考えを訴えつつ、自分の未熟さを痛感した。

ただ、小沼氏もまた、そうした厳しさを当時からプラスに捉えていた。「厳しい指摘を通して、自分に足りないものがたくさん見つかった。持つべき方向性や観点も、議論を通じて明らかになった。政治家という目標に近づける感覚が嬉しかった」。

こうして小沼氏は、誰よりも熱心に会活動に打ち込んでいった。その背景には、「四六時中雄弁会員でいたい」という思いがあった。努力を続ければ理想に近づけるという期待と、ここで頑張れないなら政治家になどなれないという意地があった。

 

真剣勝負の鉄則

当時の小沼氏にとって、雄弁会の最大の魅力だったものがある。「議論は学年も性別も関係ない真剣勝負」という鉄則だ。

 

この鉄則は、小沼氏の在籍期間を通じて維持されていた。「議論には先輩も後輩もない。求められるのはロジックと自分の想いだけだった。上級生になってからも、議論では一切隙を見せられない緊張感があった」。

学年などの垣根を取り払って議論する以上、「下級生が上級生を上回る」状況も頻繁に発生した。現役時代の小沼氏にも、上級生を超える下級生だという自負があった。ただ、そうした力量差をごまかすような会員はいなかった。

活動中の厳格な議論では勝てない、と判断した上級生は、飲み会やゲームセンターを利用した。そうしたゆるい雰囲気の中で、柔和に下級生を諭す者も多かった。「そうした上級生は、オンオフの使い分けが上手だった。議論では優位に立てても、人間力では頭が上がらなかった」と、小沼氏は振り返る。

 

こうして、小沼氏は日常生活のほぼ全てを雄弁会に注いでいった。その中で、「入ったからにはトップに立ちたい」という野心が芽生えた。その実現が先輩への恩返しだとも考えた。そして、小沼氏は幹事長選挙に立候補した。

 

一月続いた総会

幹事長選挙は、年2回行われる総会の中で実施された。総会は、真剣勝負の鉄則を如実に表す行事だった。

 

幹事長立候補者はまず、立候補声明文を発表する。会の現状分析から理念・行動方針、自分を補佐する幹事の役割規定まで、その内容は多岐にわたった。全体の文章量は、A3用紙10枚以上にもなった。そして、その中の一言一句に至るまで、会員全員を納得させる説明が求められた。そこでは、新歓合宿の「結団式」と同様に、徹底的な「激詰め」が行われた。

「三派体制」時代、幹事長選挙の主眼は、「どの候補者が何票取るか」ということに置かれた。その後派閥構造が崩壊すると、そうした政争は無意味だとされた。その結果、90年代以降の幹事長選挙は、単独立候補・信任投票制で行われていった。その一方で、従来は幹事長が指名していた幹事団にも、幹事長と同様の立候補と信任が求められるようになった。

その追及には、3つの関門が設けられていた。まず、立候補者の理念が議論された。それが認められると、理念の実現に必要な方法論の説明が求められた。さらに、その理念と方法論を担う者として、立候補者の資質が確認された。このプロセスが、幹事団の人数分繰り返された。

それまでは票集めに注がれていた会員のエネルギーは、立候補者への「激詰め」を通じた度量や論理の確認に向けられるようになった。紛糾した議論を収集しきれず、議長が流会措置を取ることもあった。

「法案の参考資料でも契約書でも、文言が少し違うだけで意味が大きく違ったりする。小さなミスや解釈の違いによって、大事な約束事やルールがひっくり返ってしまうこともある。そういう現実を踏まえた上で、やるからには厳しく、という風潮があった」。

 

各立候補者とそれ以外の会員の攻防は、全員が納得するまで続いた。結局、小沼氏が幹事長になった時の総会期間は、1か月に及んだ。

 

「体育会系雄弁会」

このころの雄弁会は、小沼氏いわく「完全な体育会系組織」であった。会内でも、「厳しすぎる」「時代に合わない」といった、運営方針に否定的な声もあった。それでも小沼氏は、幹事長就任後も会の方針を変えなかった。「意見を厳しく戦わせる議論にしか興味がなかった。意味がないとも思っていた」。同時に、その原則を外れるような人格攻撃や誹謗中傷は絶対にしなかった。

大学卒業後、経済産業省や外資系コンサルタント企業での勤務を経験する中で、自らを厳しく追い込む必要性を実感した。そうした資質を育み、幾度も自分を成長させてくれたのが、「体育会系雄弁会」だった。

 

3章:泥沼の停滞

 

一方で、小沼氏が卒業した数年後の雄弁会は、泥沼の停滞に直面していた。2010年代の会員たちにとって、雄弁会は一刻も早い改革を必要とする組織だった。

 

数年後の変容:野村宇宙氏(平成27年入会OB)

野村宇宙(そら)氏は、2015(平成27)年法学部入学のOBである。在籍中には、出場したすべての弁論大会で優勝するという実績を残した。

野村氏の入会の決め手になったのは、悔しさだった。この頃になると、2000年代ほど上級生は厳しくなくなっていた。それでも、穏やかな口調で語りつつ、圧倒的な知識や思考力の差を見せつけられた。上級生に対する尊敬以上に、悔しさが残ったという。それを晴らして成長したいという思いで、野村氏は新歓合宿に参加した。ただその内容は、関口氏や小沼氏のものとは異なっていた。

 

山梨の合宿所につくと、2年生会員たちが揃って緊張していることに気が付いた。同時に、3年生以上の上級生の間にも、異様な空気が流れていた。普段の穏やかな物腰や雰囲気は、すべて失われていた。

入会希望者1人あたりの「結団式」にかかる時間は、5時間近くになることもあった。上級生からの「激詰め」は、机を叩く、ペットボトルを投げるなどの、直接的な威圧を伴うようになっていた。それらは、かつてはタブーとされていたはずのことだった。挫折し、自尊心をへし折られる中で、涙を流す者もいたという。

すべての日程が終了すると、上級生は一転して元の優しさを取り戻した。その豹変ぶりに不安を覚える余裕すら、新入生たちからは失われていた。満足な睡眠時間も与えられず、過酷な「激詰め」を受け続けたことによって、正常な判断力は奪われていた。

「最後は拍手されるんです。最後の弁論が終わると、飲み会が開かれる。そこでの3年生はすごく優しい。そうなると、『厳しく言ってきたけど、それは真剣だからなんだ』と考えだしてくる。みんな仲良さそうだし、頭よさそうだし、もう少し頑張ろうかな、という気持ちになる。ブラック企業の研修みたいだった。よくできた構造でした」

 

総会も、2000年代とは全く別の性格を帯びていた。「今から考えると異常でしかなかった」と、野村氏は語った。

当時の総会は、ある種の劇と化していた。やることは以前と同様だった。会場となる会議室まで同じ部屋だった。それでも、総会が始まると、「全員が頭のスイッチを切り替えて役者になった」という。

誤字脱字だけで、2~3時間に及ぶ追及が常態化していた。どこか1か所でも誤りが見つかると、「ここの漢字を間違えてるぞ!」といった怒号が飛んだ。追及される側にできたのは、謝罪し、「気を付けます」と繰り返すことだけだった。指摘がやむと、声明文を一から書き直させられ、新たなミスが見つかるたびに同じことが繰り返された。「会の方向性や活動内容の議論より、総会という劇の役を演じることが優先されていた。とにかく怒鳴りつけ、何度も同じ事をやり直させて、議論が深まったという納得感や、候補者が成長したという結論を出そうとしていた。やっていることはただの人格攻撃だった」。

 

停滞の原因

こうした状況は、いつ、どのように発生したのだろうか。そして、どうして断ち切ることができなかったのだろうか。

 

2000年代のOBである関口氏や小沼氏には、会が悪循環に陥っているという認識は無かった。確かに会活動には辛く厳しいことも多く、ストレスのかかる環境ではあった。ただ、「会員全員がその厳しさに納得し、またそこに面白みを感じて活動していた」という。

「実践派」の多さが、当時の特徴だった。当時の雄弁会では、大型イベントの実施・成功が重要な会活動の指標だった。有名な政治家や学者を呼んで講演会や討論会を開き、大隈講堂を満員にすることもあった。また、当時は「全関東学生雄弁連盟(通称「全関」)」という組織が存在した。関東一帯の大学間組織で、「全関」主催の企画やディベートのリーグ戦などが開催されていた。

こうした状況において、目に見える成果が、会活動の充実を示すものとされた。「納得のいく会活動をするために、会員と協力したり、幹事長に立候補したりした。会内で政治的な争いが起こるのは当然だった。成果を出すために、あえて互いに厳しく接していた」。関口氏は当時も今も、当時の会内の空気を「健康的なもの」と捉えている。

 

その一方で、野村氏が入会した当時、雄弁会は危機的状況にあった。「人材不足による組織的限界が来ていた」と野村氏は振り返る。取材を進めると、その原因となった2つの変化が見えてきた。

 

まず挙げられるのが、若者全体における政治的関心の低下だ。2020年に博報堂生活総研が実施した社会調査「生活定点」によれば、「日本の政治・経済に関心がある」と答えた人の割合は、ここ20年で最高の2010年でも50.6%である。関心度はここから頭打ちとなり、2018年には31.1%にまで減少した。[vi]

 

「日本の政治・経済に関心がある」と答えた人の割合(画像:「生活定点2020年版」より引用)
「日本の政治・経済に関心がある」と答えた人の割合(画像:「生活定点2020年版」より引用)

 

こうした社会的状況は、雄弁会、およびその周囲を直撃した。

 

21世紀初頭は雄弁会の目玉でもあった実践企画は、取材旅行や街頭演説会がメインとなり、多くの観衆を動員するようなイベントは次第に開催されなくなっていった。

一時は合計の構成員が数百名に達していた「全関東学生雄弁連盟」は、2002年頃に実質解散状態となっていた。何度か復活が試みられたものの、どの大学でも深刻な衰退が進んでいた。活動規模を縮小したり、組織ごと消滅したりする例が相次いだ。こうした状況に見切りをつけ、雄弁会も「全関」の脱退に踏み切った。

従来のような活動を続ける環境が失われるとともに、早稲田大学内での雄弁会の求心力も鈍っていった。小渕・森政権当時には100名以上にもなった入会希望者は、2017年には10名以下まで減っていた。最終的な入会者もそれに伴って減少し、マンパワーの不足が会運営に深刻な影響を及ぼすようになった。

 

こうした人的資源の不足は、政治への関心低下だけが原因ではなかった。他サークルとの競合が発生したのである。

現在、早稲田には「3大政治サークル」と呼ばれるサークル群がある。雄弁会、鵬志会、政友会の3つである。2000年代以降、雄弁会は他の2サークルとの「パイの奪い合い」を激化させていった。鵬志会も政友会も、それぞれ独自の色を出して活動し、会員を増やしていった。すでに、「早稲田と言えば雄弁会」という認識が一般的だった時代は過去のものとなっていた。政治に関心のある早大生にとって、雄弁会は選択肢の一つでしかなくなっていた。

 

「数年後には消失してしまうのか」

野村氏が早稲田大学に入学した2015年当時は、小沼氏のころとは状況が一変していた。鵬志会や政友会といった他の「3大政治サークル」は、順調に勢力を拡大していた。特に鵬志会に対して、雄弁会は会員数やイベントの開催数で後手に回るようになっていた。

 

野村氏が幹事長に就任した際の、インタビュー記事が見つかった。そこには、会の将来を危惧するコメントが残されていた。

 

雄弁会は今、大きな岐路に立たされていると思います。社会変革者を輩出し続ける稀代のサークルとして繁栄し続けるか、はたまた縮小の一途を辿り、数年後には消失してしまうのか。全盛期に比べれば会員数は大きく減少し、個々の会員も雄弁会活動を行う中で他の活動との両立の困難性など、様々な困難に直面しています。[vii]

 

こうした状況の中でも、改革を模索する動きは存在した。野村氏が入会した2015年の後期に、一人の会員が改革に向けて動き出していた。その動きは、2016年から2017年にかけて表面化した。この時期に、雄弁会は大きな転換期を迎えた。

 

4章:「社会変革」という突破口

改革の機運:渡辺翔吾氏(平成25年入会OB)

「取材として僕にたどり着くのは正しい。雄弁会に何があったのか、という答え合わせができると思う」。そう語るのは、2013(平成25)年入会の渡辺翔吾氏である。2010年代のOBに改革の話を聞くと、必ず名前の挙がる人物だ。

 

渡辺氏が、会内最大の問題点だと考えていたことがある。「全員がおかしいと思っていることを全員が変えられない」という、会の構造的欠陥である。そこには、いくつもの内部事情が関係していた。

「当時の雄弁会は、とにかく時間の使い方がおかしかった」と渡辺氏は語る。その最たる例が総会だった。当時の総会は、1日あたり10時間ほどを消費する行事だった。すべての日程が終了するまでには、10日ほどかかっていた。「喋る人1人のために、他の20人くらいが聞いた状態で時間を使っていた。その20人には、他の作業が一切許されていなかった。20人×10日、200人日[viii]のリソースがみすみす失われていた。その時間を研究会などの『本業』に使うべきだと思った」。

渡辺氏は、会の雰囲気も問題視していた。当時の会内には、「もう終わりだな」という諦めや自嘲があった。目の前の活動を漫然とこなしている印象があったという。

 

それでも、改革は起こらなかった。「行動しないという選択肢が取られやすい状況だった。その方が低コストだし、何より楽だった」。一方で、新入生を安心させるため、会運営は 順調であること・・・・・・・が求められた。危機的状況を自覚しつつも、表向きには「大丈夫だ」と言い続けるという、組織的欺瞞が常態化していた。

こうした中で、渡辺氏を積極的な改革に向かわせる出来事があった。後輩を立て続けに失ったのである。2015年秋から、翌年にかけてのことだった。

渡辺氏は、後輩との交流を大事にしていた。その後輩が、相次いで退会してしまった。「このままでは雄弁会は続かない」と、渡辺氏は実感した。

 

「弁論原稿や研究報告書とは違って、人材はリカバリーが効かない。その枯渇からも、雄弁会の終わりが見えていた。現状をごまかす余裕はもうなかった。『明日変えよう』が『今日変えよう』になった」

 

「会論」との格闘

渡辺氏はまず、当時の雄弁会の構造を把握しようとした。その中で、「アプリ・ミドルウェア・OS(オペレーティング・システム)」という構造を見出した。

 

「アプリ・ミドルウェア・OS」の関係図(渡辺氏監修のもと筆者作成)
「アプリ・ミドルウェア・OS」の関係図(渡辺氏監修のもと筆者作成)

この構造は、コンピューターの仕組みに着想を得たものである。弁論発表や研究会といった日々の活動は、ゲームソフトなどの「アプリ」に例えられる。それを統制する「ミドルウェア」として、「結団式」や総会などの行事がある。さらに、これらすべてを司るものとして、「会論」というOS(オペレーティング・システム)が設定されていた。渡辺氏はこの「会論」を停滞の根本ととらえ、その問題点を探っていった。

 

「会論」は、もともとは一つの文書である。2011年に当時の会員によって会内で発表された、「雄弁会の活動目的は社会変革にある」と主張するものだ。しかし、日々の活動で何をすれば、なぜ、どのように「社会変革」を達成できるのかという理論的な説明は、文書内には存在しなかった。

そうした論理的欠陥を抱えつつも、「会論」は雄弁会員のあり方を示すものとして、次第に全員が従うべきものと位置づけられていった。ただ、「会論」の持つ理論的欠陥が原因となり、雄弁会は次第に活動の軸を見失っていった。こうした状況を、渡辺氏は「教条主義に陥っていた」と表現する。

「本来は一会員の考えを示した文書だった。それが想定外の機能を持ってしまった。当時の会の体質もあって、そこを変えようという動きも起こらなかった」

こうして、「雄弁会は何をするサークルなのか」という問いの答えは不明確になった。一方で日々の活動は厳しく、本来は学業や睡眠に割くための時間を犠牲にすることが求められた。それが結果的に、人材流出や組織の衰退につながっていた。

 

この頃、渡辺氏は2つのテーマを設定していた。「会論」にどう対処するかということと、「会論」に代わるものとして何を位置づけるかということである。これらを同時に解決しないと、雄弁会が「中身のない箱」になるという懸念があった。

「当時の雄弁会は、『会論』を盲目的に信仰しているようなものだった。改革のためには、会の土台として新たに据えるものが必要だった。そう考えた時、雄弁会には何があっても揺らがないものがある、と気づいた」

「会論」に代わる活動指標を探していた渡辺氏は、小野梓による雄弁会の結成趣意、そして「会旨」にたどり着いた。「一世も動かす雄弁家」を目指し、「演練・研究・実践」に力を注ぐ雄弁会にとって、それらは本来、歴史的・精神的出発点とされてきたものだった。

 

「早稲田大学建学の母」・小野梓による雄弁会結成趣意(画像:公式サイトより引用)

「早稲田大学建学の母」・小野梓による雄弁会結成趣意(画像:公式サイトより引用)

 

「まずは雄弁会を変えてみろ」

こうした結論が出た時、渡辺氏は4年会員になっていた。そして、雄弁会は新歓合宿の時期を迎えていた。合宿における模範弁論は、4年会員の担当だった。渡辺氏は、この機会を利用した。

「鏡の中の雄弁」という演題が、渡辺氏の模範弁論につけられた。「雄弁会の活動目的は社会変革だ」と、改めて主張した。自分の言葉で語り、議論し、説得し、相手の反応を「鏡」としてその成果を確認せよと説いた。その練習のために活動があるのだと、目的と手段の位置関係を示した。こうした活動を支えるのが、結成趣意と「会旨」であると宣言した。

渡辺氏は最後に、「社会変革の練習台として、まずは雄弁会を変革せよ」 と訴えた。「雄弁会すら変えられないなら未来はない」とも述べた。この模範弁論は、改革の始まりを告げるものとなった。

 

改革の継承:天野眞之氏(国際教養学部6年)

天野眞之氏(国際教養学部6年)は、この模範弁論を新入生として聴いていた。天野氏は後に幹事長も務め、渡辺氏の改革を受け継いでいった。

 

元幹事長の天野眞之氏(2021年11月25日、筆者撮影)
元幹事長の天野眞之氏(2021年11月25日、筆者撮影)

当時の改革は、渡辺氏いわく「雄弁会を機能停止にさせうる外科手術」だった。改革のために会活動を止めるのは本末転倒だった。そこで、会活動の中で行う議論とは別枠のものとして、有志による委員会が設けられた。「会論検討委員会」という名称が付けられ、天野氏もメンバーとして参加した。

 

「変え方」の変え方

この委員会は、大きな課題を抱えていた。「『変え方』の変え方」を、最初に確立する必要があったのだ。その議論の中心には、雄弁会の会規約があった。

 

会規約は、正式名称を「早稲田大学雄弁会会規約」という。会行事の開催方法や、入会の手続きなどを定めたものである。

会規約は1979(昭和54)年、会内の政治抗争の激化を危惧して急造されたものだった。90年代に派閥構造が解体された後も、「会活動のルール」としての会規約は残った。規約には抗争回避のため、様々な手続きが規定されていた。それにより、会活動の大半が煩雑な事務作業に費やされていた。

天野氏がその実態を垣間見たエピソードがある。当時、会員の退会には、退会届の提出など数段階の手続きを要した。一方で、そうした手続きを律儀に取る退会者はほぼいなかった。その責任は幹事団に課されたため、退会届の偽造が横行した。当時の会室には、辞めていった学生ぶんのシャチハタ印が溜まっていた。

渡辺氏と天野氏は、会規約の改正が最も難しかったと口をそろえて語った。「会規約には、雄弁会を円滑に運営するためのルールが示されていた。ところが、会規約そのものが機能不全を起こしていた。その解決方法を、雄弁会は用意していなかった」。会規約の中で不要な部分はどこか、そもそも規約の存在意義は何かということの把握には、1年以上の時間を要した。

 

「会論」が活動の目的を曇らせ、会規約が莫大な時間の浪費を生んでいた。これが、1年以上に及ぶ「会論検討委員会」の調査で突き止められた会の実態だった。そして、こうした旧体制からの脱却を訴え、天野氏は2017年に幹事長に就任した。

 

「守旧派」:山口宇彦氏(平成26年入会OB)

一方で、こうした改革は全員が同じ方向を向いて進められていたわけではなかった。それぞれの方針の違いから、渡辺氏や天野氏の改革に疑問を抱く会員もいた。その中に、天野氏が「当時は守旧派の代表格に見えていた」と語る上級生会員がいた。

 

その「守旧派の代表格」に、話を聞くことができた。2014(平成26)年に入会した、元幹事長の山口宇彦(たかひこ)氏である。

山口氏の口ぶりや雰囲気を、変化を嫌う気難しい人物のイメージと結びつけるのは難しい。柔和な印象のある、人当たりの良い人物だ。それでも、自分は「守旧派」だったと、あっさりと認めた。「雄弁会を良くするために、あえて天野たちに抵抗すべきだと思っていた。会の雰囲気がゆるんでくるなら、嫌われてでも引き締めないといけないなと。自分たちがきっかけで雄弁会がダメになった、とは言われたくなかった」。

そもそも、山口氏も雄弁会改革論者の一人であった。規則にない理不尽な部分を、幹事長として少しずつ変えていった。「もっとカジュアルな組織にしたかった。誰もが変えられずにいたところだった」と山口氏は語った。

山口氏は幹事長として、会の方針改革にも取り組んだ。「頭でっかちでは駄目だ、と言い続けた。内部の哲学論争に終始せず、地に足をつけて外を見るべきだ、と訴えた」。後に実現される「実践幹事」[ix] 職の導入も、積極的に検討した。

「優秀な人材がのびのびと活動し、変革者として社会に出ていける環境を作る」というのが、山口氏の目標だった。しかしそれは、「自分は優秀ではない」と判断した会員が委縮してしまう可能性を孕んでいた。

「優秀ではない人間は去れ」などとは、山口氏は全く思っていなかった。ただ、雄弁会の存在意義を考えれば、個々の理想の実現に見合う成果を要求するのは当然だと考えていた。「今考えると未熟だったと思う。雄弁会を存続させたいと思っていたが、悪い意味で雄弁会をとがらせてしまった」。

 

この方針に、天野氏は真っ向から対立した。天野氏の改革の目標は、「雄弁会のテラフォーミング」だった。当時の雄弁会は、「雄弁会以外に居場所がない人」の集合になっていた。その結果、「自分たちは世間とは違う」といった慢心が発生し、会を停滞させていた。「普通の人たち、雄弁会以外にも居場所がある人たちに選んでもらえるサークルにしたかった」。その結果自分が雄弁会にいづらくなるとしても、改革は成し遂げたかったという。

 

方針対立と相互不信

こうした方針対立は、どうして発生したのだろうか。

「山口の世代は、最後まで疑念が消えなかったんだと思う」とは、渡辺氏の言葉である。渡辺氏が本格的に改革を始めたのは、4年会員になってからであった。1学年下の山口氏からすれば、それまで慣れ親しんだものを急に捨てることとなった。「下の代が苦しむのは予想していた。犠牲になってもらうしかないと思っていた。全部元凶は僕だと思っている。山口は守旧派になったというより、させられてしまった、というのが正しい」。

全員が改革を志しつつも、その方向は異なっていた。そのうち、「本当に雄弁会を変える気があるのか」という相互不信が発生した。

この相互不信は、2017年9月の総会で噴出した。議長を務めた山口氏が、下級生に胸ぐらをつかまれる事態が起きた。「雄弁会員が暴力に訴えたら終わりだ」ということになり、この総会は流会となった。

 

その後、山口氏と天野氏は和解した。この対立を乗り越えたことが雄弁会を良い方向に導いた、というのが、共通認識となっている。天野氏と山口氏はそれぞれ、当時を振り返って以下のように語った。

「山口さんは責任感から懐疑派になっていたと思う。今までの構造を破壊して、そこで終わりなんじゃないかと」

「悔しかった。旧体制から脱却しようとしていたし、既成事実も壊していた。ただ、突き詰められたルールまで壊していいのかという懸念を、最後まで解消できなかった」

 

「失敗できる組織」へ

渡辺氏に、改革を巡る一連の出来事を振り返ってもらった。

「山口や天野らの世代の安定した会運営は捨てざるを得なかった。OSを書き換えた時点で、その後の運営方針を巡って衝突が起こるのは予想していた。だから、山口も天野も悪くない。彼らの世代を全部犠牲にして、変革する必要があった」。そうして推し進めた改革の一番の成果は、「失敗ができるようになったこと」だという。

雄弁会の体質的欠陥として、欺瞞による体制の維持があった。この欺瞞によって、雄弁会は「失敗しない組織」とされていた。失敗がない以上、過去の経験を反省することができず、成長が妨げられていた。そうした状況から脱却できたことで、会を前進させられるようになった。

 

これだけは言っておきたい、ということはあるかと聞くと、「全員真面目にやっていたということは明記してほしい」という答えが返ってきた。

「上の代も下の代も、全員が一生懸命だった。真面目に自らの役割を果たそうとして、結果的に組織が衰退してしまった。手を抜いたり、悪だくみをしたりした人は全くいない。逆に言うと、誰かがふと力を抜くだけで、もっと早く改善したのかもしれない。皮肉なパラドックスだと思います」

 

最終章

改革後の動き、雄弁会のいま

2018(平成30)年度の新入生は、天野氏らによる改革の恩恵を受ける最初の世代となった。私は、この世代の一人である。2018年後期に「実践幹事」、2019(令和元)年前期に「演練幹事」を務め、会の運営に直接関わった。そのため、この時期の記述は客観性の担保が難しい。

 

そこで、ここではデータによって変化を示す。一時期は10名程度だった会員数は、現在54名となっている。長らく雄弁会を悩ませたマンパワー不足は、解消に向かっていると言える。

2021年、雄弁会は「東京大学総長杯争奪全国学生弁論大会」をはじめとする7大会に弁士を派遣した。その結果、優勝2名、準優勝3名、第3席2名の成績を残した。また、昨年度より会内大会「小野梓杯」が設置され、新入会員が演練活動に触れるきっかけとなっている。

さらに、会内では「安全保障研究会」や「指導者研究会」といった研究会が設置されている。新入生の田所晃会員(商学部1年)は、「夏休みに安保研でじっくり研究できたことが、入会以降の最も印象的な経験」と述べた。

長らく最大の「実践」活動とされていた「遊説[x]」は、新型コロナウイルスの感染状況から実施が難しくなっている。それでも、高田馬場近辺のミャンマー人コミュニティを取材するなど、各自が喫緊の課題に対する問題意識を深めている。

 

会運営の方針:髙木航太幹事長(政治経済学部2年)

こうした活動の中心には、幹事長がいる。現役の幹事長に、その意気込みを聞いた。

髙木航太会員(政治経済学部2年)は、早稲田大学雄弁会第150代幹事長[xi]である。「演練・研究・実践」をまんべんなく経験させ、会員のやりたい事を明確化させるのが、目下の目標だという。「風通しの良い会にしたい。うまく言語化できない下級生の声を引き出せるように、自分たち上級生が努力したい」と語る。コロナ禍でもSNSを活用し、17名の新入生を集めた。印象を聞くと、「興味分野がバラバラで、多彩な印象がある。これからの社会を担う多様な会にしてくれると思う」という答えが返ってきた。

雄弁会の伝統とされていた慣習を、再利用することも試みている。注目しているのが、「理想社会像モデル」だ。文字通り、それぞれが理想とする社会を明確に言語化し、活動の指針とさせるというものだ。新歓合宿では納得のいく「理想社会像」の説明を求め、上級生が「激詰め」を行うことが頻発していた。

「自分の考えに力ずくで迎合させるのではなく、成長途中である下級生の考えを一緒に深めていきたい。それができるなら、『理想社会像モデル』の枠組みは使えると思う。単に自由なだけではなく、一定の活動方針も示せる会運営をしたい」。そう訴える高木幹事長は、社会の枠組みを壊し、力強く現状突破ができる政治家を目指している。

 

結論:「カジュアルな政治参加」について

歴史と実績は、今も昔も雄弁会の特色である。雄弁会がしばしば「総理大臣養成クラブ」「政治家の登竜門」などと称されるのも、この特色に依るところが大きい。一方で、「雄弁会らしさ」を守ることは、雄弁会というコミュニティを社会と隔絶することでもある。

社会の変革を目指して努力することは、志の高さに関わらず困難を極める。その一方で、雄弁会に集う学生たちは一貫して士気が高かった。「一世も動かすような雄弁家」を目指し、その達成過程とされた活動を継承していった。ただ、そうした努力は結果として、雄弁会を形式主義・教条主義に縛り付けてしまった。

こうした中で、数年がかりの改革により、雄弁会は「普通のサークル」へと近づいた。雄弁会に入るハードルも、活動を続けるハードルも下がった。社会に出てからも持続可能な目標を立て、その達成に取り組めるようになった。「そう考えると、雄弁会は『カジュアルな政治参加』ができる組織になったよね」とは、渡辺氏の言葉である。

 

こうした「政治のカジュアル化」は、政治を身近にする。参加条件を緩和し、参入障壁を取り払うことができるからだ。そうすれば、ひろく若者世代を巻き込みながら、政治により多様な意見を取り込めるだろう。

一方で、「カジュアル化」には課題も存在する。かつての雄弁会が真正面から取り組んでいたような、政治抗争や厳格な議論は、社会では時に不可欠となる要素である。そこから目をそらしていれば、何かした気になっただけで終わったり、視野狭窄に陥ったりしてしまう。

 

雄弁会に限らず、これからの若者世代が目指すべきは、「対等な議論の相手」として社会に存在することではないだろうか。社会変革を志したとしても、他の世代から「しょせん無力だろう」「政治に参加できてえらい」などと評価されているようでは、変革は起こしえない。しっかりと問題意識を持ち、「対等な議論の相手」として政治に参加することが、誰もが暮らしやすい社会、ひいては堅実な民主主義の実現につながるのではないか。

 

小沼氏へのインタビューを終え、帰り支度をしながら、ふと「若者の政治への関心が低いのって、誰のせいなんでしょうね」と聞いた。「自分のせいだとは思わないの?」という答えが返ってきた。

 

「社会の問題は、犯人探しをして解決できるものではない。解決をただ待つのでは、何も変わらない。自分が動かないことが問題なんだ、自分が変えるんだ、という感覚を持って活動することが、雄弁会の醍醐味なんじゃないのかな」

 

参考文献

宇恵一郎. やさしい政治家 早稲田出身国会議員54人の研究. 日経BP, 2014.

大下英治. 永田町の“都の西北”―小説早稲田大学(前編・後編). 角川文庫, 1988.

大下英治. 実力政治家を輩出する「早大雄弁会」の研究. PHP研究所, 1988.

小沼巧事務所. 立憲民主党・おぬまたくみ(小沼巧)WEBサイト. 2019. https://www.onumatakumi.com/. (最終閲覧:2022年1月13日).

角川ドワンゴ学園チャンネル. “【N高政治部】麻生太郎副総理 特別授業(高校生のための主権者教育)” Online video. YouTube, 2020.09.09 . https://www.youtube.com/watch?v=HwYFSO5OdDA. (最終閲覧:2022年1月13日).

豊田之二. 天下を狙う!早稲田雄弁会. 実業之日本社, 1985.

永川幸樹. 早大雄弁会―それぞれの人生劇場. ベストセラーズ, 2001.

永川幸樹. 続 早大雄弁会―花と嵐の人生劇場. ベストセラーズ, 2002.

日本放送協会.衆院選 最終投票率は戦後3番目に低い55.93%.NHK NEWS WEB, 2021.11.01. https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211101/k10013330811000.html.(最終閲覧:2022年1月13日).

博報堂生活総研. 生活定点1992-2020. https://seikatsusoken.jp/teiten/. (最終閲覧:2022年1月13日).

早稲田大学雄弁会.”早稲田大学雄弁会公式サイト”. https://www.yu-ben.com/.(最終閲覧:2021年12月23日).

早稲田大学雄弁会OB会. 早稲田大学雄弁会八十年史. 1982.

早稲田大学雄弁会OB会. 早稲田大学雄弁会百年史. 2002.

 

[i] 当時、学生会館は今の早稲田大学22号館の場所にあった。

[ii]出典:早稲田大学雄弁会OB会, 2002.

[iii] 出典:早稲田大学雄弁会OB会,2002, p.299.

[iv] 雄弁会の歴史を説話としてまとめたもの。伝統として、新歓合宿の最終日に幹事長が解説講義を行う。2006年時点の全文が公式サイト内の「雄弁会小史」ページで閲覧可能。

[v] 注iiiに同じ。

[vi] 出典:博報堂生活総研. 生活定点1992-2020. (最終閲覧:2022年1月13日).*URLは参考文献に記載

[vii] 2016年9月4日雄弁会公式サイト掲載「幹事長インタビュー」より。URL: https://www.yu-ben.com/category/%E5%B9%B9%E4%BA%8B%E9%95%B7%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC/

[viii] 作業量の大きさを表す単位の一つで、1人が1日働いた作業量を1としたもの。

[ix] 2017年に新設された役職。「演練・研究・実践」という三本柱に対し、役職があるのは「演練幹事」と「研究幹事」のみだった。そこで、実践活動の統括者として「実践幹事」職が構想された。

[x] 取材合宿の雄弁会内での呼称。

このルポルタージュは瀬川至朗ゼミの2021年度卒業作品として制作されました。