〈コラム〉2011年のあの日のあの場所へ行って、初めて理解できたこと


2011年3月11日。あの日、私は八王子市の小学校にいた。当時は小学4年生。経験したことのないほど大きく長い揺れがおさまった時、泣きながら友人と抱き合ったことを覚えている。仙台市に住む祖父からは「屋根が壊れた」と連絡がきた。ただ、私にとってあの日の記憶はそれだけだ。もちろん、その後の報道などで、地震によりどんな被害が生まれ、どんな事故が起きたのかは知っている。そして、どのように復興していったのかということも。しかし、私自身とその出来事を直接結びつけることはなかった。近親者の中で唯一被災したと言える祖父の家の被害も小さく、あの日起こったことをどこか遠い世界の出来事として捉えてしまったのかもしれない。これまでの私にとって、東北は帰省先でしかなく、それ以上のことを知ろうとしてこなかった。そんな私が、あの日、報道された場所に初めて足を踏み入れ、初めて理解できたことがある。(文・写真=内海日和。トップの写真は震災メモリアル公園の慰霊碑=名取市)
浪江町、戻れないという『苦しみ』と戻るという『希望』

浪江町は2011年の3月12日から、東京電力福島第一原子力発電所の事故により帰宅困難地域とされていたが、2017年3月31日より一部地域の避難指示が解除され、現在ではおよそ2000人が住む町となっている。

2022年9月、私たちは、まちづくりなみえ (*1)地域おこし協力隊の石山佳那さんに、町の沿岸部、請戸地区を案内していただいた。最初に思ったことは『海がよく見える』ということだった。少し高さのある大平山に登ると海岸まで緑の植物が広がっており、とっても見晴らしが良い。聞けば、この場所はあの日に押し寄せた津波で全て流されてしまったという。さらに、その後に起きた福島第一原発事故により、帰宅困難区域に指定され、町のがれきの下に救助を待つ人がいるという可能性を残したまま、人々は町を離れざるを得なかった。「あの時助けに行けていれば救われた命もあったかもしれないと、当時のことを振り返る人も多い」と石山さんは言う。私が見ている場所は、10年前多くの命が失われた場所だということに気づいた。

これらの土地のほとんどは町に売却され、今では町が管理する土地になっている。しかし、一度町に売られた土地は災害危険区域に指定され、今後は一切住宅や宿泊施設などを建設することができなくなるらしい。石山さんの「もう2度とこの場所で人の営みが築かれることはない」という言葉と、大平山から見たあの景色が忘れられない。

避難してからつけている日記を見せてくださる佐藤秀三さん(写真左)=浪江町、内海日和撮影
避難してからつけている日記を見せてくださる佐藤秀三さん(写真左)=浪江町、内海日和撮影

次に「一番に浪江町に帰ってきた」と話す佐藤秀三さんに話を聞いた。震災当時は行政区長を務めていたらしい。地震発生後、避難所へ移動してから起きた福島第一原発事故の影響で、町全体が帰宅困難区域に指定され、そのまま家に帰ることができなくなった。避難所生活はいつ終わるかわからない。少しでも良い気持ちで過ごすためにと佐藤さんが提案したのが7つの班割り制度だった。各グループで支援物資を分け合い、掃除当番を回すことで確実に避難所での生活がしやすくなったという。

災害が起きたら避難しなければならないということは私も知っていた。しかし、その先の日々をどう暮らしやすくするかという視点は私にはなかった。考えれてみれば避難所は避難するだけの場所ではないことは分かる。今までの私は災害と無縁の日々を送ってきただけに、避難所で生活するという発想がなかった。

佐藤さんがいち早く浪江町に帰ってきたかった理由は、「人が集まれば、町は復興する」と考えていたからだ。人が増えれば、必要な施設は増える。町に戻ってくる人もいれば、戻ってこない人もいるが、それが良いとか悪いという話ではない。佐藤さんは新しい浪江町のために、これからも奮闘する。

 

なぜ浪江に戻ってきたのか、語ってくださる鈴木荘司さん(写真左)=道の駅なみえ、内海日和撮影
なぜ浪江に戻ってきたのか、語ってくださる鈴木荘司さん(写真左)=道の駅なみえ、内海日和撮影

浪江町では最後に、「道の駅なみえ」 (*2)にある鈴木酒造店 (*3)を訪問した。専務の鈴木荘司さんに話を聞いた。請戸地区にあった鈴木酒造店は、『日本一海に近い酒蔵』として知られていた。請戸の漁師の家には必ず鈴木酒造店の日本酒があったほど、地域に密着していた酒蔵だったのだという。ところが、地震による津波でお酒を作る設備を含めた全てが流されてしまった。その後は縁あって山形の酒蔵で、鈴木酒造店のお酒を作り続けていた。転機が訪れたのは2020年だった。道の駅に小さな酒蔵を作るため、浪江町がそこに入る酒蔵を探しているという話を聞いた。鈴木酒造店は真っ先に手を挙げた。

浪江町に戻る理由は「町のシンボルになるため」だと、鈴木専務は話す。「町の復興にはシンボル的なものが絶対に必要」。こだわりは『浪江のお米とお水でお酒を作る』ことだ。浪江のお酒が再び町で作られているということが、希望になるのかもしれない。山形の酒蔵と並行しながら、町のシンボルとして浪江町での酒づくりも続けていくという。

閖上地区、全てが新しいことの意味と教訓

次の日、私たちは仙台市に移動し、閖上地区へ向かった。住宅が広がっており、一見普通の街に見える。しかし、この地区も津波で多大な被害があった場所の一つだ。「閖上に津波はこない」と言われていたこの地域で、多くの命が失われた。

日和山の麓にある説明書き
日和山の麓にある説明書き

震災メモリアル公園(*4)内に日和山という山があった。そういえば、私の名前である「日和」が入った山が、父の出身地の宮城にあると聞いたことがある気がする。丘のような小さな山。試しに登ってみると、山の上に電柱があった。その電柱の2mほどのところに書かれていたのは、津波到達地点の文字。ここまで津波がきたということか。

家族LINEに日和山の写真を送ると、父から「昔行ったことがあるが、覚えているか?」とメッセージがきた。この場所を訪れた記憶がないことを悔いた。覚えていたら、街がどのように変化してしまったかが分かったかもしれない。昔私が見たであろう日和山の姿と、今回私が見た日和山の姿は違うはずだと思いいたり、津波の恐ろしさを実感した。津波の恐さはもちろん知っていたけれど、初めて自分ごととして感じられたような気がした。

震災メモリアル公園にある高さ8.4mの慰霊碑
震災メモリアル公園にある高さ8.4mの慰霊碑

閖上地区でもう一つ印象に残ったことがある。震災メモリアル公園内には慰霊碑がつくられている。その高さは8.4mもある。閖上地区に到達した津波の高さと同じらしい。これだけの高さの波が閖上を襲ったのだということ、忘れないために、この高さにしたのだという。失われたものは戻らないけれど、教訓として生かせるものはたくさんある。この慰霊碑を見て、そう強く思った。


研修旅行が私にもたらしたもの

この研修旅行を通して、東北にルーツがありがながらも今までこれらのことを知ろうとしてこなかった自分を恥じた。どんなにメディアで情報を集めても、その場所に行き、実際に見聞きすることでしか理解できないことはある。今回話を聞いたこと、感じたことを私は忘れないだろう。

またいつか、浪江町や閖上を訪れたら、違うことを感じるだろうか。そんな日が来た時のために、今回知ったことについてこれからも考え続けていきたい。

脚注

*1  一般社団法人まちづくりなみえ https://www.mdnamie.jp/
*2  道の駅なみえ-福島県浪江町の復興のシンボル https://michinoeki-namie.jp/ 
*3  株式会社鈴木酒造店 http://www.iw-kotobuki.co.jp/
*4  慰霊碑(名取市震災メモリアル公園)「名取市観光物産協会」https://www.kankou.natori.miyagi.jp/hisaichi/1366

全て2023年1月15日閲覧

 

このコラムは2022年9月のゼミ福島・宮城研修旅行をもとに作成されました。