なぜ校舎は取り壊されたか ―東京大学第二工学部木造校舎が伝えるもの―


 

(取材・文=酒井春)

二工木造校舎アーカイブズ(https://niko-u.com/)より引用した画像。写っているのは共通第三教室棟。

 

はじめに

写真を見て、これがどこにある何の建物なのかを答えられる人はほとんどいるまい。かくいう私も、この建物について知ったのはまったくの偶然であって、存在自体認識しないままであった可能性のほうが高いだろう。これは千葉県千葉市にかつて建っていた、旧東京帝国大学の校舎だ。かつて、という言葉からも分かるように、今はもう存在していない。2022年3月頃から始まった解体作業によって、校舎はすでに取り壊されている。正確には、旧東京帝国大学第二工学部の校舎だった。すなわち、写真に写っているのは、第二次世界大戦中に東京大学の工学部生が使用していた学び舎なのだ。

インターネットでニュース記事をザッピングしていた時に、たまたま校舎の解体について書かれた東京新聞の記事[1]を見つけた。2022年6月頃のことである。記事はその1年前である2021年7月に書かれたものだった。

戦争のために東京大学に二つ目の工学部が設立されたこと、その校舎が現在まで残っていること、千葉が「軍都」であったことなどが書かれていた。まったく知らなかった。そして、校舎の解体をめぐって、一部の教員や専門家が反対の声をあげている、とも書かれていた。記事を読む限り、「なかなか貴重な建築物だったのではないか、研究者だって反対しているようだし」と思わずにはいられなかった。どうして歴史的な意味を持つ建物を壊すことになったのだろう。

校舎のことを知ったときには、すでにそれは解体されてしまっていた。けれども、建物の消失とともに知ることをやめるわけにはいかない。校舎にはどんな価値があったのだろうか。それを知るために、私は、建物の価値を訴えて解体の再検討を求めていた方々に話を伺うことにした。

(2022年7月に現地を訪れた際、すでに白いパネルが校舎の周りを取り囲んでいた。隙間から覗くと、校舎はすでになく、土砂が積みあがっている状態だった。 撮影:筆者)
(2022年7月に現地を訪れた際、すでに白いパネルが校舎の周りを取り囲んでいた。隙間から覗くと、校舎はすでになく、土砂が積みあがっている状態だった。 撮影:酒井春)
1章:千葉大学の中での保存運動
(1)校舎解体の再考を願う動きのはじまり

「遅きに失しているということは分かっていました。15年ぐらい前から壊すと決まっていたらしいので」。千葉大学工学部総合工学科歴史学コースの准教授である頴原澄子(えばらすみこ)先生は苦い表情でそう答えた。彼女は、他の教員や専門家の方々と力を合わせ、第二工学部の木造校舎の保存運動を進めてきた。彼女に話を聞くにいたった経緯は、次のようなものだった。

解体された校舎とはどのようなものだったのかを知るために、私はまず、解体中止を求める要望書を提出した当事者に話を聞くことを考えた。2021年8月6日、文部科学大臣と千葉県知事、千葉市長、東京大学総長、千葉大学学長ら宛てに、解体の再検討を願う要望書[2]が届けられている。(これより先、千葉大学を千葉大、東京大学を東大と記載する。)文書を提出したのは、歴史学研究会を始めとする歴史系の組織や団体。「第二工学部の校舎の解体について知りたい」と連絡してみると、木造校舎の解体については、学外に情報が回ることはほとんどなく、現場も一般公開されることはなかったという。千葉大や東大の関係者であるならまだしも、研究会などの第三者の立場では詳しい情報を集めることさえ難しかったようなのだ。「この先生が詳細を知っているのでは」と紹介していただいたのが頴原先生だった。

頴原先生が本格的に解体の中止を求めて活動し始めたのは、2020年9月のこと。東大の教員に誘われ、見学に行ったのがきっかけだという。木造校舎は、旧共通第三教室棟と旧応用科学棟の2棟が残っていたが、長らく使われていなかったのではないかと頴原先生は話す。

 

2

(「誰も入ったことがないような感じがした」と頴原先生が語った応用科学棟の外側【上】と内部【下】。どちらも二工木造校舎アーカイブズより画像引用。https://niko-u.com/)
(「誰も入ったことがないような感じがした」と頴原先生が語った応用科学棟の外側【上】と内部【下】。どちらも二工木造校舎アーカイブズより画像引用。https://niko-u.com/

建物の存在や、どうやら解体されるらしいということは、以前から認識していた。しかし、その時には、運動を始めることはなかったそうだ。なぜか、と聞くと、「建物をどうするかにかんしては、もちろん東大の建物だから、東大が決めるんだろうなと思っていました」。しかし、実際の建物を見学してみて、考え方が変化した。「これだけ面白い歴史的な建物が壊されてしまうのは、再考したほうがいいんじゃないかと思いました。遅いとしても、そのことに気付いた段階で言っておくべきだと」。

そう考えた頴原先生は、建物解体に対して再検討を求める活動を始めた。2020年11月には、東大の総長宛てに要望書を提出。2021年3月末ごろには、千葉大建築学コースの教員の方々に相談して、活用計画の提案など、具体性を持った内容にまで踏み込んだ運動を始めた。さらに同年5月には、他の学問分野を担当する同大の教員らの協力のもと、組織立った形で、千葉大の執行部に対して再び要望書を提出した。これには、文系科目を専門とする人が加わったことによって、歴史的背景といった建築的価値以外の観点も盛り込まれた。しかし、その声は届かなかった。2022年3月、ひっそりと70年間の歴史を蓄えてきた校舎はこの世から姿を消すことになった。

 

(2)「内部の者として」の活動と外への情報発信

どうして解体反対の願いと相反する結果に終わってしまったのだろう。頴原先生は運動を振り返り、こう語った。「(もう少し早く外部に発信することで)いろんな方面から(建物の)価値を発見してもらうようにしたほうが良かったかもしれない」。

頴原先生は、一連の保存運動において、東大や千葉大の教員の方々とともに要望書の提出などを行ってきた。しかし、意外なことに、学生や地域住民などの第三者に対して協力を呼び掛けるようなことは、積極的には行ってこなかったという。もし私が彼女の立場であれば、できるだけ多くの協力者を集めようとするだろう。そうしなかったのは、なぜか。「建築の保存運動は外部の人が所有者に要求する形のものが多い。けれど、所有者でない人間が一方的に要求することによって、こじれる場合も多くある」と頴原先生は話す。

建築物の保存や維持には多額の費用がかかる。所有者の事情もある。それを考えることなく、一方的に「この建物は残すべき」などと叫ぶのは何かが違うのではないか、という考えが、心の底にはあった。だから、「当初はあくまでも内部の者として、再考をお願いしたいという形をとった」。

しかし、前章でも述べたように、当事者ではない第三者には、木造校舎に関する情報がほとんど入手できなかった。さらに、千葉大の学生や、校舎と同じ敷地内にあった生産技術研究所の人であっても、校舎の存在やその詳細を知らない場合もあるようだった。もっと外に情報を発信して、活動に協力してもらうことができれば、違う結果になっていたのではないか。頴原先生はそう考えているのだった。

確かに、歴史ある建物を残していくことは重要だ。過去を辿るきっかけになるし、研究の役にも立つだろう。加えて、新しいものを作るのではなく古いものを修理しながら長く使っていくという考え方そのものが、環境の観点から考えても大切だと思う。けれど、古い建物を維持していくのには責任が伴う。そこへの理解抜きに叫ぶだけでは、遺産を残すことは難しいのだ。

(頴原先生たちが作成した「二工木造校舎アーカイブズ」のウェブページ)
(頴原先生たちが作成した「二工木造校舎アーカイブズ」のウェブページ)

頴原先生たちが保存運動とは別にもう一つ取り組んだのが、2021年6月に公開された『二工木造校舎アーカイブズ』[3]の制作だ。これは、東大と千葉大のメンバーが解体前に建物内を調査し、それを記録したもの。「現時点で分かっていることだけでも公開すれば、他の先生方が研究のきっかけになるようなことを発見してくれるのではないか」という思いがあった。

アーカイブズには、航空写真、建物の内外部を撮影した写真など、100枚以上の画像資料が掲載されている。また、資料は平面的なものにとどまらない。3次元測量データを用いて建物を立体的に再現し、実際に内部を歩いているかのような動画が作成・公開されている。アーカイブズの作成者には、東大と千葉大それぞれの、所属学部の異なる教員と学生の名前が名を連ねている。それぞれが多様な視点から建物の貴重さを受け止め、せめてデータだけは残したいという思いを込めたことが伝わってくる。頴原先生は、アーカイブズの写真を見た人たちが、光の具合や壊れかけた校舎のたたずまいを見て美しいと言ってくれたのだと語った。「(校舎に)行くたびに印象が変わる。写真は一瞬しか切り取らない」。データに保存しても、実物にしかないものはたくさんある。一度壊してしまったら取り返しがきかない。だから残したかった、という悔しさが言葉ににじんでいた。

(「二工木造校舎アーカイブズ」の3次元測量データ。 https://niko-u.com/home/%e4%b8%89%e6%ac%a1%e5%85%83%e6%b8%ac%e9%87%8f%e3%83%87%e3%83%bc%e3%82%bf/)
(「二工木造校舎アーカイブズ」の3次元測量データ。 https://niko-u.com/home/%e4%b8%89%e6%ac%a1%e5%85%83%e6%b8%ac%e9%87%8f%e3%83%87%e3%83%bc%e3%82%bf/

木造校舎の跡地は、今後「文教のまち」として再整備がされていく予定だ(詳しくは4章を参照)。その構想について、頴原先生は考えを話してくれた。「文教のまち」と言うのなら、戦時中に使われていた学び舎を貴重な建築物として保存し、活用する道もあったのではないか、というのがそれだ。「木造校舎を真ん中に据えるような形でのマスタープランは十分描けるような気がして、それは魅力的じゃないかなと思いました」。

取材を終えて印象的だったのは、建築保存運動の難しさだ。解体する所有者と保存を求める人々の双方が、互いの立場や意見を理解し合い、妥協点を見出していかなければ、良い結果は生まれない。

ところで、保存を求めていた人たちの考えとは、どのようなものだったのだろう。そもそも木造校舎にはどのような価値があったのか。なぜ木造校舎を残したかったのだろうか。頴原先生の言う、「これだけ面白い歴史的な建物」とは何なのだろう。

 

2章:木造校舎の価値とは何か?
(1)軍都だった千葉

解体中止を求めた人たちは、校舎の何に価値を見出していたのか。前章でも言及した、「旧東京帝国大学第二工学部木造校舎の解体中止を求める要望書」には、こうある。「千葉という地域の記録と記憶を、さらには日本近代における科学技術の進展や戦争の経験を未来に伝えていく上で、大変貴重な歴史的建造物である[4]」。「千葉という地域の記録と記憶」とは、戦前・戦中における、千葉という地域の「軍都」的側面のことだ。「科学技術の進展」とは、校舎に見られる建築様式や設備が、建築学や科学技術史の観点から見て貴重であることを指している。さらに、「戦争の経験」とは、第二工学部が戦争による工学部卒業生の需要の増加にともなって設立されたという、歴史的な背景のことを示している。ここでは、千葉の軍都的側面について、少し掘り下げてみよう。

(千葉歴史学会が発行する雑誌『千葉史学』に掲載された「旧東京帝国大学第二工学部木造校舎の解体中止を求める要望書」の資料[5])
(千葉歴史学会が発行する雑誌『千葉史学』に掲載された「旧東京帝国大学第二工学部木造校舎の解体中止を求める要望書」の資料[5])

軍都だった千葉についての話を聞くため、私は千葉市立郷土博物館を訪れた。郷土博物館は千葉駅から外房線で一駅行った本千葉駅の近くにある。ここでは、2020年に特別展として「軍都千葉と千葉空襲」を開催していた。そのことを知り、「特別展のことについてお伺いしたい」と取材を申し込んだ。答えてくださったのは、当時特別展を担当していた錦織和彦さん。「特別展の開催にあたり、改めて戦時の千葉について調べた」のだそうだ。錦織さんに教えていただいた「軍都千葉」は、次のようなものだった。

(2)黄色から緑へ

千葉は戦前、多くの陸軍施設が置かれていた。置かれていた施設は、陸軍病院、鉄道連隊、歩兵学校、気球連隊、戦車学校といった、軍隊の後方を管轄するものが多かった。これにはいくつかの理由が考えられる。軍事上の要所にはすでに実戦部隊が置かれているが、千葉市はそれには当てはまらなかった。しかし、東京に近い立地と広大な敷地があることによって、実戦的な施設よりも後方支援を行う施設のほうが多く建設されたのだ。さらに、千葉市による軍隊の積極的な誘致も、「軍都千葉」に影響したようである。

(赤く囲まれた範囲が軍施設のあった場所。千葉市立郷土博物館『軍都千葉と千葉空襲』[6]より引用した画像に筆者が書き足したもの。)
(赤く囲まれた範囲が軍施設のあった場所。千葉市立郷土博物館『軍都千葉と千葉空襲』[6]より引用した画像に筆者が書き足したもの。)

戦争の結末を知っている私たちからすると、自分たちの土地に軍隊を呼ぶことは、自分たちの安全を損なう可能性を秘めたリスキーな施策と考えられる。しかし、当時では、軍隊を呼ぶことはその地域にとって大きなメリットを生むものだった。軍施設が地域に存在することはその地域にとっての誉れであるし、軍人が居住することで町が活性化すると思われた。

便利な立地と積極的なアピールによって千葉は軍都になったが、戦争のはじめのうちは攻撃の標的にはならなかった。しかし、戦況の悪化に伴って千葉にも爆撃が行われるようになった。

大きな空襲は2回あった。[7]1945年6月10日早朝、27機の敵機が千葉市の上空に現れた。これを六月空襲といい、いくつかの学校の校舎が爆弾の餌食になった。2回目は同年の7月7日未明で、今度は千葉市街地が攻撃目標となった。この七月空襲では、前月の空襲の4倍以上の数の敵機が無差別攻撃を加えた。死傷者は1,000人を超えた。郷土博物館の手前にたたずむ石碑には空襲の犠牲者たちが記されているが、その中には、氏名が分からず「千葉神社壕内隣組夫婦」のように記載されているものもある。

六月空襲は、軍用の練習用戦闘機を製造していた日立航空機千葉工場が標的だったと言われるが、実際には工場への被害はほとんどなかった。被害を受けたのは、工場に隣接する住宅地や千葉機関区、千葉師範学校や県立千葉高等女学校などの学校だった。当時、工場への敵からの攻撃に備えるべく、周辺の学校の体育館に航空機のための資材を移し、作業場所を分散させることで標的にならないようにしていた。六月空襲で千葉工場が戦火を免れたのは、敵の誤爆だったという説もあるいっぽうで、インテリジェンス能力にたけた米軍がすでに作業場所の分散を見抜いており、的確に爆撃をしていったという主張もあるそうだ。

錦織さんは、千葉工場で学徒動員を経験していた方に直接話を聞くことができたそうだ。それによれば、戦争の始めの頃に製造していた戦闘機は黄色に塗装されていたという。けれども、戦争の終盤になると塗る色は緑に変わっていった。黄色は練習用戦闘機を表し、緑色は実戦用戦闘機を示す。練習用のみを製造するはずだった千葉工場で、機体を緑に塗装したということは、練習機を実戦機に転用したということだ。それだけ戦況がひっ迫していたことを象徴するものと言える。

 

(3)解体された戦跡

千葉市には、石碑や軍施設の建物の一部などの戦跡が散らばって現在も存在している。しかし、建物として残っているものは数少ない。だからこそ、戦時に、戦争のために建てられた第二工学部の木造校舎は、「軍都千葉」を物語る一つの建築として貴重であるのだ。

実際に、2020年には、「軍都千葉」を象徴する戦跡の一つだった「旧気球連隊第二格納庫」[8]の建物が解体されている。これは1934年に建てられたもので、偵察と防空の役割を持つ軍用気球を入れるために利用されていた。第二格納庫の造りは、現在も多くの体育館や展示場などで採用されているダイヤモンドトラス構造であり、戦前の大きな発明技術が見られる貴重な建物だった。

しかし、私が着目したいのは、格納庫の解体が決まった後のことだ。2020年に解体が決まると、所有者の協力によって建物の見学会が行われたらしい。さらに、「千葉市近現代を知る会」という地元の市民団体による測量が行われ、図面と模型がつくられた。格納庫に使用されていた部材の一部は千葉市に寄贈され、2021年の5月から7月にかけては郷土博物館の企画展の中で展示もなされた。

木造校舎も、「二工木造校舎アーカイブズ」によって測量データや建築の背景が調査され記載されている点では第二格納庫と同じかもしれない。しかし、この事例を見ると、所有者の多大な協力のもと、地元市民に開かれた形で戦争遺産の保存がなされたことが分かる。木造校舎の見学会や企画展といった、多くの人に木造校舎の価値を伝えるような機会はつくられなかったのだろうか。そもそも、なぜ東大は貴重な建築物である第二工学部の木造校舎の解体を決めたのだろう。一つ目の疑問について話を聞くため、私は先述した「千葉市近現代を知る会」の代表である、市原徹さんに連絡を取った。

 

3章: 外側からの保存運動
(「千葉市近現代を知る会」代表の地域史研究家・市原徹さん。写真は自宅。撮影:筆者)
(「千葉市近現代を知る会」代表の地域史研究家・市原徹さん。写真は自宅。撮影:酒井春)
(1)価値が分かれば、言わなくても保存されると信じていた

頴原先生は、千葉大における校舎解体の再考を願う活動の中心人物であったが、最初に木造校舎のことを知り、行動を起こしたのは、千葉市の地域史を研究する建築士である市原さんだったそうだ。千葉大の教員で当事者ともいえる頴原先生とは異なり、市原さんは千葉市で地域史を調査する第三者。彼は、校舎の解体やそれに関する一連の保存運動をどう見ていたのだろうか。

2022年8月の上旬、市原さんの自宅に伺った。通された書斎には、本やファイルにまとめられた資料がところ狭しと並んでいた。本棚に入りきらない分は机にそのまま積み上げられていて、研究者の作業場というイメージがぴったり合うような、そんな部屋だった。薄暗く静かな空間の中で、市原さんは木造校舎との出会いについて、語り始めた。

彼が木造校舎のことを知ったのは、2015年ごろだったという。知人から、どうやら戦時中に建てられた校舎があるらしいという話を聞き、その年の生産技術研究所の公開日に木造校舎を実際に見に行った。「『古い建物が残っているんですよ』『そうなんですか』って。それで一緒に行ったんです。そしたら、残っていた。実はすごく驚いて。こんな建物がまだ残っているんだって」。公開日のため、来訪者に対して各研究室が実験を見せてくれたという。市原さんは建築の研究室に赴き、木造校舎について質問してみた。しかし、詳しく知っている者はほとんどいなかった。

市原さんは個人的に校舎について調べ、どうやら解体の計画が着々と進んでいるらしいことを知った。木造校舎のある敷地は2つに分けられ、一方は千葉大に、もう一方は民間の会社に売却されることが決まっているようだった。しかし、その境界線上に立っている木造校舎について、土地売却計画では何も言及されていない。計画のまま進めば、校舎は確実に真っ二つにされてしまうだろう。危機感を抱いた市原さんは、校舎解体の阻止のための活動として、2018年に「千葉市近現代を知る会」を設立した。自分ひとりが立ち向かうよりも、集団で活動したほうが効果があるのではないかと思ったのだ。歴史や建築に興味を持っている人を約10名ほど募り、会を結成した。そして、マスコミや東大・千葉大の研究者に対し、木造校舎の価値を伝え解体を再考してもらうことを求める文書を送り、要望を伝えたという。「私が主張したのは、『記録をちゃんと残してもらいたい』ということ。(建物を)保存しろとは言ってないんですよ。せめて調査をすれば、東大にも千葉大にも専門家がいるわけだから、その価値が分かる。言わなくても自然とそうなる(保存が進む)だろうから、まずは調査をしてくださいという要望だった」。しかし、要望に対する前向きな反応は得られなかった。

(市原さんが撮影した木造校舎「旧共通第三教室棟」。提供:市原さん)
(市原さんが撮影した木造校舎「旧共通第三教室棟」。提供:市原さん)

 

(2)木造校舎の価値とは何か? 戦時統制と校舎設立

私は、ここまでの話を聞いて、市原さんの行動力に目を見張った。千葉大や東大に所属しているのではない地域住民という立場で、周りを巻き込んで行動を起こしていたことが、素敵なことだと思ったのだ。それだけのエネルギーを投入するだけのどのような理由が、木造校舎にはあったのか。

市原さんに、二工木造校舎の価値とはどんなものかを尋ねてみると、彼は次のように答えた。「第二工学部の時代背景を知って、その建物がそのままいまだに残っていること自体がすごいなと思いました。建物が立派だというわけじゃないけど、その時代を反映している物がそのままここに残っている。意外とその頃の建物はないんですよ」。

保存活動を広めるため、市原さんは知人や千葉大の研究者たちにアプローチした。とりわけ木造校舎の保存に関心を示し、積極的に動いてくれたのは、建築家の知人や研究者よりも、むしろ歴史を研究する先生方が多かったという。木造校舎は、見た目が華やかであるわけでも、建築として画期的であるわけでもない。それは校舎が建てられた背景を考えれば当然のことだった。

[9]第二工学部が設立されたのは1942年のことだ。1942年4月には、第1回生として421名が入学している。第二工学部の設立が決められたのは1941年1月のことだから、わずか1年ばかりで新たな学部が生まれたことになる。

それは、戦争が始まってから工学部の卒業生に対する需要が高まったことによるもので、需要の増大は第二工学部の設立前から問題になっていた。実際に、1938年からは学生増募を2度かけており、そのことからも喫緊の課題だったことが分かる。もともと、学生の募集枠を増やすことは臨時措置だったそうだ。しかし、戦況が長引き、工学部卒業生を求める声は膨らんでいった。そこで、政府は大学に対し、第二工学部を創立してほしい旨の交渉を行った。そして1941年1月30日、企画院での緊急会議の中で、東京帝国大学に第二工学部を設立することが決定したのだ。

第二工学部は、当初、1943年から学生を受け入れる予定だったらしい。しかし、政府側の要望により、1年早めての開学となった。それだけ、状況が切迫していたということだろう。

校舎を作るうえでも、状況は困難を極めた。当時の建設業には、様々な統制があったのだ。1937年、鉄鋼工作物築造許可規則が公布され、1938年には鉄鋼工作物築造全面禁止となった。戦時中の木造建築について調査された論文の一つには、「戦争のための鉄不足と重なり、木造で建てざる得ない状況であった[10]」(p.627)と書かれている。1941年には、鉄や銅、青銅を使用した製品を供出させる勅令として金属類回収令が出された。当時、建築資材はどれも統制品で入手が困難であったようだが、特に不足していたのは鉄鋼だったそうだ。通常であれば、公的な証明書を持って配給を受けなければならなかったが、陸海軍が軍需資材から供出することでなんとか確保することができた。ただし、それも戦況の進捗によって滞ることもあり、資材の調達は思うように進まなかった。

1939年には、木材建物建築統制規則によって、100平方メートルを超える木造建築物が統制され、さらに1943年には、工作物築造統制規則においてその半分の面積の建物にも統制が加えられることになった[11]

工学部である以上、火を使用する実験等も行われるため、当初は防火性を考えてコンクリート造を予定していたらしい。しかし、物資不足の影響か、それは認められなかった。最終的には、木造2階建ての質素な学舎で、必要な箇所にのみコンクリート製の防火壁が設けられることになった。結局、1942年4月の開学時には、敷地の全面積である18,000坪のうち、およそ2,300坪しか竣工が追い付かなかった。

このように、戦時中で、金属などの資材もすべて戦争に回すことが最優先だった。立派な校舎を建てられるはずもない。倹約を重ね、鉄製品やコンクリートなどの貴重な物資を節約して作られた建物は、まさに戦時中のひっ迫を示していると言える。「あの当時の日本の状況を示すひとつの現物という意味で貴重」だと市原さんは言う。

建築の話ではなく歴史の話なんだ、という彼の一言が印象的だった。市原さんは、大学で建築を学んでいたが、造形美といった表面的なものよりも、歴史的背景など、本来の建築から少し離れたところにあるテーマに興味を抱いていたという。第二工学部に対する興味も、そこから来ているのだろう。

後述するが、千葉大のキャンパスの計画に関する資料を参照[12]すると、2012年の段階で、すでに木造校舎が建っている敷地の活用が示唆されている。複数にわたる会議によって取り決めがされ、大学の経営層による決議が行われた跡地計画を、この期に及んで見直すことは難しかったのだろうか。けれども、残したいという思いがあればやりようはいくらでもあったのではないか、という思いが市原さんにはあった。

 

(3)文字だけのコミュニケーションには意味がない
(取材中の市原さん。10センチほども厚みのある資料ファイルには、ご自身でまとめた二工の解体の経緯に関する年表や報道記事が綴じられていた。 撮影:筆者)
(取材中の市原さん。10センチほども厚みのある資料ファイルには、ご自身でまとめた二工の解体の経緯に関する年表や報道記事が綴じられていた。 撮影:酒井春)

2021年9月3日、読売新聞千葉版の朝刊にて、「木造校舎2棟の解体が8月中旬に始まった」と報道がなされた[13]。しかし、実際に解体が始まったのは、2022年の3月だった。その情報は、内部の人間はともかくとして、外部の人間に周知されることはなかった。解体の時期が分かれば何か手を打つことができたのではないかと、市原さんは振り返る。「もし私にできることがあったとしたら、工事をしている人たちにどういうスケジュールでやっているのか説明を求めるね」。千葉大ないし東大の関係者であれば、工事に関する説明を求めることはできたかもしれない。けれど、市原さんたち外部の人間に、そこまでの行動をとることはできなかった。

さらに、保存運動は、コロナ禍の情勢もあって、ほとんどが対面ではなく文面のやり取りによって行われていた。市原さんが千葉大の関係者や千葉市に対して行った要望も、メールのやり取りによるものだったのだ。当事者どうしが出ざるを得ないような場で、直接説明を求め、意見交換をすることができていたら、何か違ったかもしれないと市原さんは考えていた。

解体されていく校舎を見て、ショックを受けたという。「簡単に壊しちゃう。バシャバシャって。粉塵をあげて壊れてた。残念な話だよな」。残念な話、と、市原さんはシンプルな表現を使った。しかし、その裏には「そうとしか表現できない」という悲しみの大きさが現れているような気がした。

第二工学部の校舎という入口から、先述した千葉の軍都としての歴史や、戦時統制を新たな視点から知ることができる。木造校舎は戦争についての情報を得るためのたくさんの引き出しを持っている。それこそが、歴史的遺産の価値というものだろう。けれど、取材を通して、地域住民など一般の方々への木造校舎に関する情報発信があったという事実は見つからなかった。

根本的な「なぜ?」がますます膨らんでいく。すなわち、どうして解体してしまったのかという疑問だ。頴原先生の言うように、所有者にも解体しなければならなかった事情はあるだろう。けれど、ここまでの取材では、木造校舎に対する解体者側の思いは分からなかった。

 

4章:解体の経緯
(1)解体の背景

木造校舎はなぜ解体が決まったのか、まずはその背景を探ってみることにする。1942年に旧東京帝国大学第二工学部が誕生したことはすでに述べたが、1951年になると、第二工学部は、戦争のために作られた「戦犯学部」とのそしりをうけつつ閉学した。そして、生産技術研究所(以下、生研)と呼ばれる東大の研究機関となることが決まった。

生研が発行する雑誌『生産研究』(2019)によれば 、第二工学部のあった場所は千葉実験場としてその名が変わり、さらに千葉実験所と改められた。さて、千葉実験所がある西千葉は、都心から少し距離がある。しかも、木造校舎で研究を行うには火災の不安があるし、不便でもあった。そこで、生研の六本木移転が進められた。

千葉実験所は、「都市部では実施が困難な実スケールに近い実験を行う施設として重要な役割を果たし[14]」ていたという。例えば、溶鉱炉の操業試験や地震における耐震実験などの自然災害に対する大規模な装置を用いた研究が進められていたようである。

平成に入ると、東大は本郷、駒場、柏の3つのキャンパスに拠点を集約する構想を掲げた。それを受け、1998年に生研の駒場キャンパスへの移転が開始され、さらに2017年4月には実験所を柏キャンパスへと移転したのだった。

移転すれば、木造校舎のある西千葉の土地は不要になる。そこに、その土地に隣接してキャンパスを構えている千葉大との需給が一致したのだろう。キャンパスにある施設や環境整備のための計画である「千葉大学キャンパスマスタープラン2012」によると、「西千葉キャンパス東側に隣接し、移転が決定している東京大学生産技術研究所西千葉実験所敷地に関しては、その一部を千葉大学が利活用する方策がないかを含めて検討していく必要がある[15]」(p.18)とされている。千葉実験所は、図のように、千葉大の敷地の南東側にパズルが埋め込まれたような形で存在しており、2012年の段階で、その敷地の活用もキャンパスの環境整備の対象に組み込まれていた。さらに、その5年後の「千葉大学キャンパスマスタープラン2017」(以下、マスタープラン2017)では、該当の敷地に関して、「その一部を千葉大学が利活用する方策の検討が2015年(平成27年)から開始された[16]」(p.19)と記載されている。2015年までの3年間の間で、千葉大と東大の間に具体的な検討の議論が始まったのではないかと考えられる。

(「東京大学生産技術研究所附属千葉実験所の跡地利用に係るまちビジョンの補足資料」より画像引用。)
(「東京大学生産技術研究所附属千葉実験所の跡地利用に係るまちビジョンの補足資料」より画像引用。)
(2)境界線上にある木造校舎

さて、マスタープラン2017は2017年7月31日に公表されたが、その策定は2016年4月から始まっていた。プランの策定に至るまでに、東大の跡地利用に関して複数回の懇談会と会議が開催されている。前者は「東大生研跡地に係る三者懇談会」であり、東大、千葉大、千葉市が4回にわたって会議を重ねたようだ。後者は「東大生研跡地利活用検討WG会議」であり、計3回開催されている。同年10月には、三者懇談会によって「東京大学生産技術研究所附属千葉実験所の跡地利用に係るまちビジョン」(以下、まちビジョン)が策定された。これは、実験所の跡地および隣接している千葉大のキャンパス一帯の土地についてまちづくりを進めていくための方向性を検討し取りまとめたものだ。

まちビジョンの中で示されたのが、次のような構想だ。

(「東京大学生産技術研究所附属千葉実験所の跡地利用に係るまちビジョンの補足資料」の画像を基に筆者が作成した図。)
(「東京大学生産技術研究所附属千葉実験所の跡地利用に係るまちビジョンの補足資料」の画像を基に筆者が作成した図。)

「東京大学生産技術研究所千葉実験所」というのが、木造校舎のある敷地だ。東大はその敷地の一部を隣接する千葉大と交換した後、図の赤い枠で囲まれた土地全体を民間企業に売却する。まちビジョンでは、跡地一帯を「文教のまち」の一翼を担う地域として整備していくという方針が示されている。もともとこのあたりの地域には大学や高校といった教育機関が多くあり、「文教のまち」としてのまちづくりが進められてきていた。

では、なぜ木造校舎を解体しなければならないのか。考えられる大きな問題の一つは、木造校舎2棟がちょうど2つの土地の境界線上に位置していることだ。図を見ると、境界線は定規で引いたかのようにまっすぐ引かれていることが分かるだろう。地図に引かれた線でそのまま土地を分けた場合、校舎は真っ二つになってしまう。校舎をよける形で境界線を決めるということはできなかったのだろうか。本当に、取り壊すこと以外の選択肢はなかったのか。

 

(3)東京大学の回答は

木造校舎に関する種々の疑問を抱えて、私は東京大学に取材を申し込んだ。知りたいことは、大きく分けて3つある。1つ目は、校舎の解体までにどれぐらいの検討を重ねたのかということ。2つ目は、解体の中止を求めていた人たちの声をどのように受け取っていたのかということ。3つ目は、校舎の価値についてどのように捉えていたのかということだ。

取材前から、私はとても緊張していた。これまでの取材結果を鑑みるに、解体は内々に着々と進められていたことのようだった。「話せることは何もない」の一点張りかもしれない。何も情報が得られないかもしれない。私は一抹の不安を抱きつつ、東京大学本郷キャンパスに赴いた。

取材に答えてくれた資産活用推進部の担当者の方に、私はまず校舎解体の経緯について尋ねてみた。やはり、きっかけは西千葉にあった生産技術研究所が移転し、土地を売ることになったことだった。けれども、解体は決して拙速な判断ではなかったと担当者は話す。キャンパス移転については、2007年から計画が立てられたが、それに伴い、西千葉の敷地内にあった建物については、生研が主体となって一軒ずつ調査が行われたという。生研に所属する建築の専門家との議論の結果、校舎の解体が決まった。

その理由の一つには、建物の危険性があったのだそうだ。木造校舎は、数年前まで事務棟として使われていた。けれども、調査のために建物を訪れた時には、すでに崩れかかっている場所もあり、とても安全とは言えない状況だったという。

生研が六本木から駒場へと移った後、六本木にあった研究所の建物は解体されている。それは1928年に建設された旧陸軍第一師団歩兵第三連隊の兵舎として使われていたコンクリート造の建物だったが、それでさえ、解体せざるを得なかった。「木造となれば、残すのはなおさら難しかった」。技術的に可能であったとしても、補強し続け、管理していくにはそれなりの費用がかかる。どうしても費用との兼ね合いを考えなければならなかった。しかも、木造校舎は、千葉大の敷地となる予定の土地と、民間に売却される土地とのちょうど境にある。曳家をしようにも、西千葉には校舎を移せるような東大の土地はもうない。

解体に反対していた東大や千葉大の教員たちとは、互いの納得できる結果を探すために、対面で話し合いをする機会を設けた。最終的に、校舎内の実験装置や壁などの一部の資材は研究材料として保存することになった。「大事なものであれば、研究材料として使える」。

解体前に、建物を公開したり、歴史を伝える展示を行ったりしなかったのはなぜか、という問いに対しては、「(解体は)大学内で決定したことであり、おおがかりな周知の必要はない」という回答だった。そもそも、先述したように崩れる可能性のある建物を、一般の人に公開することはできなかったし、地域住民からの校舎の公開を求める声は、特に耳に入ってこなかったのだという。私は、「周囲をもっと巻き込めばよかった」と頴原先生が語っていたことを思い出した。

木造校舎の価値について、どのような認識でいるのかを尋ねると、「貴重な建物であり遺産であるという認識を、当然持っている」と答えが担当者から返ってきた。そのうえで、「費用や安全を考えた現実的な判断だったと思う」と続けた。境界線上に木造校舎が乗っていることにかんしては、千葉大に渡す土地に残る木造校舎については、残すのか活用するのかの判断を千葉大に委ねたという。けれども、千葉大は解体を決定した。

取材を通して、東大の行った判断に、「できることはしたのだ」と自信をもっていることが印象的だった。研究材料として建物の部材の一部を採取して保存している点からも、木造校舎を遺産として貴重なものだったと捉える姿勢があったことが理解できた。一方で、その貴重な遺産を多くの人に開かれた形で残す意思が東大にあったのかどうかについては、疑問が残る結果だった。先述した「二工木造校舎アーカイブズ」は、東大が、というよりも、木造校舎を何らかの形で残したかった教員や専門家が、主体となって作成したものだ。もし、頴原先生たちが解体に反対の声をあげることなく、アーカイブズを制作していなければ、第二工学部木造校舎の詳細なデータが人々の目に触れる機会はほとんどなかっただろう。

さて、東大が熟慮を重ねた結果、解体の判断をしたことは知ることができた。それでは、千葉大はどうか。なぜ千葉大は、残すことができたであろう木造校舎を解体することにしたのだろう。千葉大に取材を申し込んでみた。

すると、企画部渉外企画課広報室から、取材には応じられないという回答があった。「東京大学第二工学部の木造校舎解体についての判断は東京大学において行われており、千葉大学はその判断に関わっていない」ためだという。けれど、千葉大の敷地に存在する校舎についての判断は千葉大に委ねられていたのではなかったか。そう思い、さらに尋ねてみると、

 

「一部の土壌から法に定める指定基準を超える特定有害物質が検出されており、土壌汚染のリスクの観点を含め学内において議論され、更地化後に取得することを機関決定」

 

ということだった。つまり、土壌汚染のため、東大が更地化と土壌浄化のための工事を行った後に取得することが決まったということだ。けれど、千葉大が木造校舎をどのように価値づけていたのか、届けられた解体反対の要望書をどう受け止めたのか、そもそも木造校舎の価値について議論されたのか。それらを直接聞くことはできなかった。

 

5章:まとめ

今回の取材を通して、当初「どうやら価値ある歴史建造物がさらっと壊されてしまったらしい」という程度の情報しか得られなかった第二工学部の木造校舎解体について、その背景を知ることができた。解体を決めた側には、所有者としての責任を持って建物の処置を検討したという言い分があった。そして、解体に反対していた人たちは、所有者の立場や考えを汲みつつも、どうにか保存してほしかったという思いを今でも抱えている。

歴史ある建造物の保存は、困難を抱えているのが現状だ。例えば、国の登録有形文化財を見てみる。2022年12月12日時点で、総登録件数14,307件のうち、焼失や解体などで登録が抹消された文化財は309件あった[17]。割合は2パーセント程度。微々たるものだ。けれど、文化財に指定されるような建築物が、解体されてしまっているという事実があるのは明らかである。

さらに、歴史建造物でありながら、有形文化財に登録されていないものはもっと多いだろう。登録有形文化財に指定されれば修理費の一部の補助や税制の優遇措置を受けることができるが、解体などの現状変更をするために許可を取らなければならなくなる[18]。それを負担に感じる所有者は、あえて登録しないこともあるという。

話を伺った頴原先生と市原さんが、二人とも「日本はスクラップアンドビルドの文化だ」と話していたことが印象的だった。海外に比べると、日本ではもともとの建物を保存・改修し再活用していくのではなく、建て替えてしまうことが多いのだという。それは災害大国であるということが一つの要因なのだろう。環境的な理由が、日本と他国との建造物に対する見方の違いを生み出したのではないか。すなわち、歴史的建造物の保存は必要であるが、優先度は低く、二の次にしがちということだ。

私は木造校舎解体の反対派と解体者側の双方に取材を行い、両者がともに歴史的建造物の保存の重要性を感じているのだということを知った。しかし、程度には差があるように感じた。その差が今回の「解体」という結果を生んだのだ。今後、同じように危機に瀕している建物の取り壊しを防ぎ、別の解決策を講じていくためには、「建造物の保存は大切だけど、次の開発のためには壊しても仕方ない」というイメージや考え方そのものを変えていくほかない。先述した登録有形文化財もそのための取り組みの一環ではあるが、隠れた歴史的遺産を大切に受け継いでいくという認識を広めることに大きく寄与しているとは言いがたい。

歴史的建造物は、ランドマークになり、地域や地域が歩んできた道のりに目を向けるきっかけであり、現在と過去がつながりを持っていることを象徴するものだ。手放しに「なんでも残せ」と言うわけにはいかないが、遺産がこれまでため込んできた記憶を私たちが受け取り、現在の記憶を遺産に託すことで将来へとつながっていく、そんな遺産の在り方を期待したい。

 

(注)

[1] 「姿消す、戦時下の学舎 千葉の東大旧第二工学部 「貴重な歴史遺産」研究者ら反対も」東京新聞、2021年7月16日

https://www.tokyo-np.co.jp/article/117035

 

[2] 「旧東京帝国大学第二工学部木造校舎の解体中止を求める要望書」

http://doujidaishi.org/info/2021/08/18/%E6%97%A7%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E9%83%A8%E6%9C%A8%E9%80%A0%E6%A0%A1%E8%88%8E%E3%81%AE%E8%A7%A3%E4%BD%93%E4%B8%AD%E6%AD%A2%E3%82%92/

[3] 「二工木造校舎アーカイブズ」(https://niko-u.com/

[4] 同上

[5] 千葉歴史学会(2021)「旧東京帝国大学第二工学部木造校舎の解体について」、『千葉史学』pp.114-117

[6] 千葉市立郷土博物館「千葉市生100周年記念令和2年度特別展 軍都千葉と千葉空襲-軍とあゆんだまち・戦時下のひとびと―」p.4

[7] 同上、pp.61-62,p.76

[8] 旧気球連隊第二格納庫についての記述は、千葉市立郷土博物館「陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラス―」を参照。

[9] 第二工学部の歴史に関しては、以下を参照した。

東京大学生産技術研究所(1968)「東京大学第二工学部史」

[10] 米倉陸・鎌田貴久(2019)「戦時中に火災を受けた木造倉庫に関する調査」『日本大学生産工学部学術公選会講演概要』、52巻、pp.626-627

[11] 大橋雄二(1992)「建築基準法の確認制度の成立過程と構造計算対象建築物」『日本建築学会構造系論文報告集』、第434号、p.43

[12] 「千葉大学キャンパスマスタープラン2012」p.18

https://www.chiba-u.ac.jp/campusplanning/public3.html

[13] 「戦後76年 東京帝大校舎解体始まる 軍都千葉伝える建物」読売新聞、2021年9月3日、朝刊、千葉県版、p.24

[14] 福谷克之(2019)「千葉実験所の70年―西千葉から柏へ―」『生産研究』、71巻3号pp.262-265

(https://doi.org/10.11188/seisankenkyu.71.262)

[15] 「千葉大学キャンパスマスタープラン2012」p.18

https://www.chiba-u.ac.jp/campusplanning/public3.html

[16] 「千葉大学キャンパスマスタープラン2017」p.19

https://www.chiba-u.ac.jp/campusplanning/cmp2017.html

[17] 文化庁ホームページ「登録有形文化財(建造物)の抹消件数」

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/yukei_kenzobutsu/massho/index.html

[18]國學院大學メディア(2021)「保存から保存&活用へと舵を切る文化財―背景にある日本の課題と、法改正によって引き出される地域の魅力とは―」

https://www.kokugakuin.ac.jp/article/25319

 

参考文献

・大橋雄二(1992)「建築基準法の確認制度の成立過程と構造計算対象建築物」『日本建築学会構造系論文報告集』、第434号、pp.39-49

・國學院大學メディア(2021)「保存から保存&活用へと舵を切る文化財―背景にある日本の課題と、法改正によって引き出される地域の魅力とは―」

https://www.kokugakuin.ac.jp/article/253193

・千葉市立郷土博物館「千葉市生100周年記念令和2年度特別展 軍都千葉と千葉空襲-軍とあゆんだまち・戦時下のひとびと―」

・千葉市立郷土博物館「陸軍気球連隊と第二格納庫-知られざる軍用気球のあゆみと技術遺産ダイヤモンドトラスー」

・千葉歴史学会(2021)「旧東京帝国大学第二工学部木造校舎の解体について」、『千葉史学』pp.114-117

・東京大学生産技術研究所(1968)「東京大学第二工学部史」

・「姿消す、戦時下の学舎 千葉の東大旧第二工学部 「貴重な歴史遺産」研究者ら反対も」東京新聞、2021年7月16日

https://www.tokyo-np.co.jp/article/117035

・「(戦後76年)軍都・千葉の面影、取り壊し危機 稲毛・旧東京帝大第2工学部の木造校舎」朝日新聞、2021年8月31日、朝刊、千葉県版、p.20

・福谷克之(2019)「千葉実験所の70年―西千葉から柏へ―」『生産研究』、71巻3号pp.262-265

(https://doi.org/10.11188/seisankenkyu.71.262)

・文化庁ホームページ「登録有形文化財(建造物)の抹消件数」

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/yukei_kenzobutsu/massho/index.html

・米倉陸・鎌田貴久(2019)「戦時中に火災を受けた木造倉庫に関する調査」『日本大学生産工学部学術公選会講演概要』、52巻、pp.626-627

・「千葉大学キャンパスマスタープラン2012」

https://www.chiba-u.ac.jp/campusplanning/public3.html

・「千葉大学キャンパスマスタープラン2017」

https://www.chiba-u.ac.jp/campusplanning/cmp2017.html

・「二工木造校舎アーカイブズ」(https://niko-u.com/

・「野村不に優先交渉権 市と利用用途協議へ」千葉日報、2022年6月29日

 

 

このルポルタージュは瀬川至朗ゼミの2022年度卒業作品として制作されました。