何も知らなかった郷土の戦争 ― 伊豆下田から戦災伝承を考える


トップの写真は下田市鍋田にある鎮魂碑。終戦の2日前、鍋田沖で空襲に遭った輸送潜水艇の乗組員を追悼するために建立されたもの=2021年2月27日、筆者撮影

序章 何も知らなかった郷土の戦争

「太平洋戦争」「大東亜戦争」「先の大戦」「あの戦争」…。1941年12月8日から1945年8月15日まで日本がアメリカ・イギリスをはじめとする連合国と戦った戦争にはいくつもの呼び名がある。その戦争に初めて関心を持ったのは小学校3年生か4年生のころだったと思う。地元・静岡県下田市の街中にある玩具店、その棚に並べられているタミヤ製のキングタイガー戦車のプラモデルをふと手に取ったのがきっかけだった。キングタイガー戦車のプラモデルを組み立てて以降、大戦中の兵器のプラモデルに魅せられた私は戦艦大和、戦艦陸奥や零戦などいくつも買ってきては組み立てた。

プラモデルの組み立て以上に魅せられたのが、プラモデルに付いてくる組み立て説明書だ。説明書にはその兵器に関する歴史解説も載っている。それを読んでいるうちに関心は兵器から、あの戦争そのものへと移っていった。「漫画 日本の歴史」の「アジア・太平洋戦争」の巻だけを買ってもらい何度も繰り返して読んだ。中学以降は新書などにも手を出すようになり、いつしかあの戦争に関する書籍が本棚の一角を占めるようになった。

しかし、一つだけ引っ掛かり続けていることがあった。小学生の時、あの戦争に興味を持ち始めたころ父から聞いた「下田も空襲に遭っているんだよ」という言葉だ。詳しく聞いたが父も「今、下田小学校がある場所に爆弾が落ちたらしい」ということしか知らない。その時はそれ以上調べることはなく、気がつけば中学・高校を卒業し大学生活も終わりに近づいていた。

父の言葉を聞いた時に比べてあの戦争には随分詳しくなったと思う。戦争の発生原因やその推移、主要な軍人・政治家の名前もすらすらと言える。でも、郷土を襲った空襲のことは何も話せない。日本の犠牲者数が310万人[i]だということは知っていても、そのうち何人が下田で亡くなったかは知らない。郷土の戦争に関する知識だけは、小学生の頃のままだ。「それではいけない」。そんな思いから地元・静岡県下田市を襲った空襲について調べ始めた。すると下田がかなりの空襲被害を受けていると知った。同時に想像以上にきちんとした記録が残されていることも分かった。下田を襲った空襲の実像について迫ると同時に、どうしたら空襲の記憶を受け継いでいけるのか考えていきたい。(取材・執筆=河津真行)

次章以降、「第二次大戦のうち、アジア・太平洋地域で行われた、日本と米国・英国・オランダ・中国など連合国との戦争」[ii]の呼び名は「太平洋戦争」で統一します。

第1章 あっさり分かった空襲の実像

静岡県下田市

「卒業制作では下田を襲った空襲について調べよう」。そう決めた私は下田市立図書館に向かった。その土地のことを調べるには、その土地の図書館に行くのが一番だ。「空襲についてのまとまった資料は無くても断片的な資料はあるだろう。そこから調べていき、空襲の全容を解き明かす卒業制作にしよう」。そんなことを考えながら、図書館で下田の空襲に関する書籍についての資料請求を行った。

しばらくして司書さんが何冊もの本や資料を持ってきた。その中に私が衝撃を受けた冊子があった。『終戦五十周年記念誌 海鳴り-昭和の戦争と下田-』だ。戦後50年を機に下田市が編纂し、1996年に発行された『海鳴り』には下田を襲った戦火について詳細な記述が載っている。空襲を受けた日時と投下地点は正確に記録され、犠牲者の氏名と年齢、親族まで分かる。数十の体験記も載っている。私が卒業制作で調べようと思っていたことの大半が分かってしまった。とはいえ、実際に体験した方に話を聞かないと実像は見えてこない。そう考えた私は『海鳴り』と顔を突き合わせながら、取材の前に改めて下田を襲った空襲について事実関係を整理することにした。

第2章 空襲で100人以上が亡くなっていた

下田を襲った戦火はどのようなものだったのか。ここで一度『海鳴り』の記述をもとに事実関係を確認していく。1945年4月12日、下田の街は最初の空襲に見舞われた。午前10時20分ごろ、下田港に入港中だった陸軍の輸送船部隊「暁部隊」を標的にして1機の米軍爆撃機が複数の爆弾を投下した。多数の町民が陸軍部隊の見物に来ていたこともあり、民間人にも被害は及んだ。町民だけで56人がこの空襲で犠牲になったという。

また、「下田に集結中の兵隊が大勢死んだため、その処理が先で母や弟たちの通夜、ダビができたのは二日後のことでした」「この日は兵隊さんが大勢(はっきりとした数はわかりませんが、何千人ともいわれています)が下田に集結していました」「父は憲兵から死亡した兵隊の人数を聞いていた様子でした。もしその数を聞いていたら私は大変驚いたでしょうが-。秘密にされ、はっきりはわかりません」[iii]という証言があることから軍人を合わせるとより多数の犠牲者がいると思われる。下は0歳児から上は80歳まで幅広い年齢層の町民が巻き込まれており、18歳未満の子どもも16人が犠牲となっている。

次に空襲に見舞われたのは6月10日のことだ。午前8時15分と比較的早い時間であり、宿営先の下田高等女学校から近所の寺院(了仙寺)へ移動する海上特攻隊員を標的としたものだという。この攻撃では町民16人が犠牲になった。この空襲の際、爆弾が直撃した理源寺に宿泊していた20人以上の朝鮮人労務者が犠牲になったという証言が存在している。[iv]

その後も下田は8月13日まで何度か空襲に見舞われた。太平洋戦争の終結までに7度の空襲被害にあい、12回の投弾を受け、民間人97人が犠牲になっている。(うち3人は不発弾を使用した防火訓練で発生した事故による犠牲)軍人や労務者などを合わせれば100人以上が犠牲になったのは間違いない。

下田市を襲った主な戦災 (『海鳴り』収録の「下田の空襲」「戦災者名簿」を元に筆者作成)
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第3章 空襲体験者の証言

『海鳴り』を読み、下田の戦争被害の記録を知ってから私は実際に体験した人の話を聞きたいと強く思うようになった。資料には細かい記録が載っているが、喋らないし質問することもできない。だからこそ体験者に直接会って話を聞きたいと思ったのだ。戦後76年が経って戦争体験者の高齢化が進行している。当時の生まれた子がいまや76歳。戦争について覚えている人は皆80歳以上になっている。「今聞いておかないと」という思いも強かった。

 「布団を被って震えていた」…荒井さん(90)の証言
荒井さんは熱を込めて空襲の体験を話してくれた=2021年11月5日、筆者撮影
荒井さんは熱を込めて空襲の体験を話してくれた=2021年11月5日、筆者撮影

最初に話を聞いたのは下田市鍋田に住む荒井育代さん(90)だ。下田市が最初の空襲被害を受けた1945年4月12日、荒井さんは奉公先の下見のため、当時住んでいた南上村(現:南伊豆町)から下田町(当時)へ母親と共に出てきていたという。当時の荒井さんは14歳で高等小学校を卒業したばかり。「同い年の女の子たちはみんな沼津の海軍工廠に勤労動員で行っていました。けど、うちは父が早くに亡くなり、長兄も軍隊に取られていた。だから、母は私を手元に置いておくために下田に奉公へ行かせようとしたんです」と話す。もちろん勤労動員という制度は知っていた。しかし、それが地元でも行われていたということを体験者の口から聞くと、急にリアルに感じた。

奉公のため、下田に向かった荒井さんはバス停を降り、河岸に整列している軍隊を見ながら下田港内にかかる「みなと橋」の上を渡っていた。すると、突然飛行機の轟音が聞こえたそうだ。轟音が聞こえしばらくすると、街の方で大きな破裂音が響いた。「物凄い音でびっくりしました。あんな音は聞いたことがなかったです。それまでしたことのないような怖い体験でした」。無我夢中で橋を渡りきると、近くの家のおばさんが「お入りなさい、お入りなさい」と声を張り上げながら、歩いている人を自分の家になかに入れてくれた。「いの一番に家の中に逃げ込んだ。音がやむまで、家の人が出してくれた布団を被って震えていました」。

「兵隊さんたちを狙って爆弾を落としたんだ」。布団の中で誰かが言うのが聞こえた。「もう帰ろう」。空襲が終わると、母親が言った。奉公先にも行かず、南上村に帰ることに決めた。「必死だったからかどこをどう通って帰ったか、詳しくは覚えていない」という。ただ、今でも忘れられない光景がある。「空襲の後、河岸の方を見ると並んでいた兵隊さんたちは誰もいなくなっていた。その代わり、生きているのか死んでいるのかも分からない血だらけの人を兵隊さんが運んでいました。恐ろしいものだと思って夢中で逃げました」。気が付くと、バスの停留所まで戻っていた。「南上村に行くバスはどれですか」。バス一台一台のドアを開けながら必死で帰るバスを探したという。

その後は奉公の話も断り、終戦まで実家の精米所を手伝った。終戦後も怖くてなるべく下田の街には行かないようにしていたという。結婚して下田の家に引っ越した後も、空襲のあった場所にはなるべく近づかないようにしていた。「空襲の時、助けてくれた家にはお礼に行かなきゃ行けないと思っていました。でも、爆弾が落ちた辺りに近づくのは怖くて嫌でした」。

これまで空襲の話はほとんど話してこなかったという。荒井さんは私が小中学校時代にお世話になった塾の塾長である荒井福美先生の母親で、今回の取材も荒井福美先生にセッティングしてもらったものだった。同席していた荒井福美先生も「ここまで詳しい話は初めて聞いた」と驚いていた。「母親にも誰にも言うなと強く止められていました。何より、怖くて思い出したくなかった。同級生は徴用などに行ってもっと怖い思いをしているだろうに、地元に残っていた自分が話して良いのだろうかという気持ちもありました」と荒井さんは話す。その言葉を聞き、私は戦災が体験者の心に残す大きな影響を感じた。

「人の手が道に落ちていた」…臼井さん(95)の証言

次に話を聞いたのは下田市池之町に住む臼井時男さん(95)だ。旧制豆陽中学(現在の静岡県立下田高校)を卒業後、東京農工大で学び、長く林政に関わってきたという臼井さん。私を玄関で迎えてくれた時の様子は実際の年齢よりずっと若く感じられた。

1945年当時、臼井さんは下田国民学校(現:下田市立下田小学校)の代用教員として勤務していたという。「昭和19年の秋ごろまで下田の町内は比較的静かで運動会などもやりました。でも、19年の11月、下田の上空を5~6機の爆撃機の編隊が通りました。隣の下田八幡神社にあった鐘楼の方までみんなで逃げた。その時、米軍機を初めて見ました」。それ以来、宿直の際に空襲警報の連絡を役所から受ける仕事も行うようになった。

そのころから戦争は下田にも暗い影を落とし始めた。「小笠原諸島から疎開してきた子どもたちがクラスに何人かいました。学校の悪ガキたちが疎開児童をいじめるんですね。彼らを怒ったこともありましたよ」。昭和20年に入ると、本土決戦を見据えてか街は戦時色を急激に強めていったという。「下田に軍隊が入ってきて、料理店が海軍御用達になったりもした。若い士官がその店で威張っていたことを覚えています」。

下田市が最初の空襲被害を受けた4月12日、下田国民学校の職員室にいた臼井さんたちのもとへ「空襲で町がやられた」と連絡が入った。教員たちは全員で被害を受けた町内へ救援に行ったという。「崩れている家の家庭用防空壕から女性を引っ張り上げて救出しました。無事だったけど、爆風で髪の毛は逆立ち、砂埃にまみれていた。見たことのない形相をしていました。何人か助けたところで消防団が来たので、あとは任せて学校へ戻りました」。この空襲では下田国民学校の児童も5人犠牲になった。「夕方、職員室で校長が空襲で犠牲になった子の名前を読み上げていました」。

空襲の翌月、臼井さんは代用教員を辞めて無線電信講習所(現:電気通信大学)へ入るために上京した。上京後の8月、無線電信講習所が本土決戦に備え長野県塩尻に疎開することとなった。疎開前に出された1週間の休暇中、臼井さんは再び下田の空襲を目撃する。休暇中の昼前、弟と共にリアカーを引き、芋を貰いに行く最中、40機以上の米軍戦闘機が下田に飛来するのを目撃した。直接目撃したのは、機銃掃射のため飛来する戦闘機だけだったが、臼井さんの父親はさらに凄惨な光景を目撃していた。「当時、消防団員だった父は機銃掃射を受けた河岸に救援に向かりました。着くと、河岸は血だらけで足が飛んだり、血だらけになったりと重傷を負った陸海軍の軍人が多くいたそうです。父たちは彼ら負傷者を湊海軍病院まで運ぶトラックの荷台に載せたといいます」。

臼井さん自身も凄惨な光景を目撃している。「機銃掃射の前に、大きな爆弾が近くに落ちて大穴が開いたことがありました。空襲後、近くを歩いていると頭と手足のない砂だらけになった胴体が落ちていました。また、軍手が落ちていると思いよく見てみると、それが人の手だったこともありました」。臼井さんは空襲の記憶を残す大切さを強調する。「平和であることの大切さというものをしっかり伝えるべきです。空襲の様子や残された人の悲しみを見たら強くそう思います」。

取材中、驚いたことがあった。臼井さんが私の今は亡き祖父と幼馴染だと言うのだ。「あなたのお爺さんの方が、何歳か年上だったからね。僕は敬ちゃん、敬ちゃんと言ってましたよ。面倒見がよくてね、(祖父の家に)風呂に入りに行ったこともあったなあ」。懐かしそうに祖父との思い出を話す臼井さんの話を聞きながら、私は祖父から一度も戦争の話を聞いていないことに思い当たった。戦時中、東京の大学に通っていた祖父は下田の空襲を見ていないと勝手に思い込んでいた。でも、臼井さんだって帰省中に空襲に遭っている。祖父だって見ているかもしれない。下田での空襲は見ていなくても、あの時代を生きている以上、戦争体験は必ずある。なぜ生きているうちにそれを聞いておかなかったのだろうと取材しながら強く思った。

第4章 空襲被害は開国の歴史と表裏一体

なぜ下田はここまで凄惨な被害を受けたのだろうか。下田は風光明媚な観光地だ。大学進学で上京して4年経つと、東京の喧騒に疲れ、下田に帰りたくなることがある。それだけ静かな街なのだ。はっきり言えば田舎である。当時下田に住んでいた方に話を伺うと、「最初は下田が空襲に狙われるとは思っていなかった」と話す。実際に戦時中、下田には都市部や島嶼部から疎開している児童もいた。なぜ度重なる空襲被害を受けたのだろうか。

この謎について話を聞くために、私は母校である静岡県立韮山高校を訪ねた。校長の櫻井祥行先生に話を聞くためだ。櫻井先生は郷土史家としての顔も持つ。私自身、報道部に所属していた高校時代に何度もお世話になった。伊豆半島の歴史に詳しく、地元紙にも寄稿している櫻井先生なら理由が分かるのではないかと思ったからだ。

早速、櫻井先生に話を聞くと、下田が空襲を受けた理由をこう解説してくれた。「江戸時代から太平洋側から日本を目指す人々は富士山を目標として来ました。だからこそ、伊豆半島は江戸時代から海防の拠点となり、ペリー艦隊も浦賀から下田に回され、他国の軍艦も複数、下田にやってきたわけです」。海防の要所という性質は太平洋戦争中でも基本的には変わらなかった。「海防の要所だったからこそ、下田をはじめとして伊豆半島には多数の海上特攻隊基地が建設されました。伊豆半島に掘られた海上特攻隊用の壕は200本を超えていますし、下田にも第五十七震洋隊をはじめとして多数の部隊も配備されていました」。

このような海防の要所という町の性質が下田への空襲を招いたそうだ。また、江戸時代から風待ち港として栄えるなど、海上補給の中継地点だったことも下田が空襲被害を受けた一因だという。「太平洋戦争中、下田には伊豆諸島へ兵員・物資を供給するための輸送船部隊が頻繁に出入りしていました。それらの部隊が標的となって空襲が行われました。事実、下田港で2隻の輸送船が空襲により撃沈しています」。

さらに下田上空は東京空襲の際の米軍機の航空路に当たっていた。先述のように本土空襲を行う米軍機は富士山を目標として、サイパン、グアム、テニアンなどの太平洋の島々から日本本土に飛来したためだ。そのため、1944年の11月には東京の中島飛行場武蔵工場爆撃のため発進したB29爆撃機により、下田港に250キロ爆弾が投下されている。以上のような地理的な特性によって下田は空襲の被害を受けて、多くの犠牲を出すこととなった。ペリー来航という下田の歴史に特筆される出来事と、太平洋戦争中の空襲被害は表裏一体だったのだ。

第5章 3人に1人しか知らない空襲

下田が空襲の被害を受けたという事実をどれくらいの人が知っているのだろうか。疑問に思った私は母校である下田市立下田小学校でアンケート調査を行うことにした。とはいえ、小学校は忙しい。「アンケートに応じてくれるだろうか」という不安を抱きながら、小学校にお願いに行った。幸運なことに下田小には現在、私が小学校1年生のときの担任である田村史朗先生が再び赴任されていた。田村先生に事情を話すと、校長先生と繋いでくれるという。太田和夫校長にアンケートをお願いすると、快く引き受けてくれたため、お言葉に甘えて、早速アンケートを取らせていただいた。アンケートでは5年生児童からは33、6年生児童からは32の回答を得た。

下田小でのアンケートの結果(筆者作成)
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返ってきたアンケートの結果は次のようなものだ。5年生の児童33人の内、「下田が空襲の被害を受けたことを知っている」と答えた児童は11人だった。また、6年生の児童32人の中で「知っている」と答えた児童も12人にとどまった。「知っている」と答えた児童23人のうち、18人は祖父母、曽祖父母といった家族から空襲の話を聞いていた。「知っている」と答えた児童も「97人が空襲で亡くなっている」という事実に対しては「そんなに多くの人が亡くなっていることに驚いた」「思っていた以上に多かった」などの感想を寄せており、空襲被害の細かな実相までは知らないのではないかと思わされた。

児童には「下田に軍隊の基地(海上特攻隊基地)があったことを知っているか」という質問も行った。この質問には5年生児童33人の内6人が「知っている」と答え、6年生の児童32人では4人が「知っている」と答えた。市民生活に縁遠い軍隊の存在は、空襲以上に人々の記憶から薄れつつあることが分かる。また、空襲同様、5年生では6人中5人が、6年生では4人全員が家族から話を聞いていた。

ただ、今回のアンケート調査では子どもたちが地元の戦争被害を知ることに対しては積極的であることも分かった。「下田が戦争中に受けた被害について知りたいと思うか」という質問に対しては5年生児童33人の約8割に当たる26人が、また、6年生では児童32名の約9割に当たる28人がそれぞれ「知りたい」と答えている。「下田の空襲で97人が空襲で亡くなっていることについてどう思うか」という設問では多くの児童が「もう戦争が起きてほしくない」「無関係の人の命が奪われて可哀想」「戦争なんてない方が良い」などと綴っていた。

下田が空襲を受けたという事実を3人に1人しか知らない。正直なところ、この結果は予想の範囲内だった。もちろん広島や長崎、沖縄といった地域の郷土の戦争に対する認識とは段違いだろうし、東京などの小学校であれば東京大空襲を知っている子はもっと多いはずだ。とはいえ、人より太平洋戦争に詳しいと自負する自分ですら、今回調べるまで実情を殆ど知らなかったほどだ。むしろ、意外に知っているものだな、と感じた。ただ、気になる点があった。それは空襲や海上特攻隊基地の存在を知る児童のほとんどが家族から話を聞いていたということだ。つまり下田において空襲などの戦災伝承は家族が担っているということになる。

第6章 戦争体験者の高齢化

郷土の戦災伝承の中心が家族である一方、戦争を語り継げる「家族」はどんどん高齢化しているのではないか。そう考えた私は下田市遺族会に取材することにした。「遺族会」という組織を聞きなれない人も多いかもしれない。遺族会とは戦後、戦死者などに与えられる恩給の遺族枠の拡大、支給額の増額を求めて活動した団体であり、日本遺族会を頂点に各都道府県、各市町村に下部組織を持つ巨大組織だ。[v]終戦後しばらくは戦死者の遺族が莫大な人数いたこともあり、戦死者の顕彰や慰霊祭の実施などに大きく貢献をしていたほか、軍人恩給支給に関する交渉のため大きな政治力を持っていた。しかし、近年では遺族の高齢化により会員数が減少、活動を縮小したり、解散したりする各地の遺族会も出ている。[vi]その遺族会に話を聞けば高齢化の実態が見えると思ったのだ。

村田さんは遺族会の存続に危機感を募らせている=2021年11月6日、筆者撮影
村田さんは遺族会の存続に危機感を募らせている=2021年11月6日、筆者撮影

「このままでは遺族会は潰れてしまうかもしれません」。下田市須崎の村田佳隆さん(88)はそう語気を強める。私の取材のために多くの資料を用意し、待っていてくれた村田さんは遺族会の行く末に対する強い危機感に満ちていた。下田市遺族会は毎年3月の戦没者・戦災者合同慰霊祭や市内各支部の持つ忠魂碑の維持管理を行う。村田さんはその市遺族会で20年以上にわたって副会長として会計などの実務を担い、会の運営を支えてきた。

今、村田さんは遺族会会員の減少に苦心している。下田市遺族会の会員は200人ほどで、最も多かった時期の約600人に比べると会員数は1/3までに減少した。会員のほとんどは70代~80代の戦没者の子ども世代、その多くは自身も戦争体験者だ。戦没者の孫・ひ孫世代による青年部もかつて立ち上げたものの、参加者が少なく解散した。「孫の世代はほとんど入ってくれない。ひ孫世代に至っては0と言っても良いです」。村田さんはそう苦しい実情を打ち明ける。

遺族会の高齢化に伴い難しくなっているのが、慰霊祭の実施だ。慰霊祭は年に1度の戦没者・戦災者を追悼する機会であり、広島や長崎、沖縄などでは追悼式典で子どもたちによる「平和宣言」が行われるなど、戦争伝承の重要な機会となっている。だが、下田市では新型コロナウイルス感染拡大の影響でもう2年連続で開かれていないという。「参加者のほとんどが高齢者なので、コロナ下では開けなかったのです。2022年は実施しようと話していますが、感染状況次第では開けるかどうか分かりません」。

現在、慰霊祭の準備・運営は15名ほどの役員が中心となって行っており、その全員が70代~80代だ。その役員たちも後継者はいない。新型コロナの感染が収束しても、早晩担い手が不足し運営が立ち行かなくなる事態となるのは容易に想像できる。慰霊祭自体も毎年150名~200名ほどが参加しているが、招待客を除けば40代~50代の孫世代ですら参加は少数、ひ孫世代の参加者に至っては「見たことがない」という。

慰霊祭の存続のため、村田さんは行政への移管を望んでいる。「私たちはあと5年なら出来る。でもそれ以上は分かりません。長く続けるためにも市に主催してほしい。慰霊祭という名前で神主さんやお坊さんを呼ぶと政教分離の観点から市が主催できないなら、追悼式典という名前にすれば良い。実際に戦没者追悼式は国が主催して、天皇陛下や総理大臣も出席しています」。現在、市遺族会は下田市と慰霊祭の実施母体について交渉を始めているという。ぜひとも、下田市は慰霊祭を何らかの形で引き継いで開催してほしいと感じた。

第7章 デイサービスで戦争伝承も

静岡県西伊豆町

小学校へのアンケート調査、そして村田さんへの取材を通して見えてきたのは下田市の空襲の記憶が置かれた危機的状況だ。多くの子どもたちは空襲の存在を知らず、知っている子たちも家族から聞いて知っている。しかし、空襲を知る世代は高齢化が著しい。このままでは下田の空襲は忘れ去られてしまうかもしれない。そう感じた私は伊豆地域のおける戦災伝承を調べることにした。

こういう時は地元紙が役に立つ。幸い伊豆地域には地元に密着した郷土紙『伊豆新聞』がある。「伝承活動を行っている団体はあるのだろうか」と考えながら国立国会図書館に通い、『伊豆新聞』のバックナンバーをめくる中で一つの記事を見つけた。賀茂郡西伊豆町に住む戦争体験者の女性が、通うデイサービス施設の活動として、地元の小学生への戦争体験伝承活動を行っているという記事だ。早速、私はこのデイサービス施設を運営するNPO法人「みんなの家」(西伊豆町)に取材を申し込んだ。取材を申し込んだところ、「みんなの家」代表の奥田俊夫さんは快く取材に応じてくれた。そこでZOOMで取材をさせていただいた。

「みんなの家」は1999年に古民家を活用した小規模デイサービスとして開設された。ただ、開設当初から戦争体験伝承活動を行っていたわけではないという。奥田さんたちは利用者と話す中で気づくことがあった。「お年寄りから話を聞く中で必ず戦争の話が出てくるんです。『お母さんの思い出』という文集を作ろうとしたときにも、母親のことを詳しく覚えていない人は多いのに、戦争のことになるとはっきり覚えていてみんな話せたんです」。戦争のことを話してもらうことで、お年寄りもまだまだ地域社会に貢献できるのではないかと奥田さんは考えたそうだ。

2007年8月、そうした思いから文集『戦争の思い出』の編纂を始めた。スタッフが利用者の戦争体験を聞き取り、冊子にまとめるというものだ。さらに同年10月、「みんなの家」が西伊豆町立仁科小学校の「仁科お楽しみウォークラリー」の立ち寄り場所となった。そこで立ち寄った全校生徒約200人に、利用者の戦争体験講話を行ったことをきっかけに小学生に向けた戦争体験講話も始めることとなったそうだ。

小学校での講話の様子=奥田俊夫さん提供
小学校での講話の様子=奥田俊夫さん提供

新型コロナウイルスの流行前、戦争体験講話は西伊豆町内と松崎町内の4小学校の6年生を対象に行っていた。小学校に出向き、出前授業として自身の戦争体験を描いた紙芝居を使いながら利用者が講話を行う。講話の後は小学生からの質問にも答える。戦争で夫を亡くしたある女性は授業の最後に「二度と戦争をしてはいけない」と訴えた。このような言葉を聞いた子どもたちの中には戦争のことをもっと知りたいと家族で広島平和記念資料館に行った子もいるそうだ。

伝承活動は講話だけにとどまらない。仁科小学校と西伊豆町立田子小学校の児童を対象に戦中・戦後の生活の体験教室も行っていた。主に体験するのは食生活だ。塩づくり体験では、西伊豆町黄金崎から汲んできた海水をろ過して煮詰める。また、輪切りにしたサツマイモに穴を開けてわらで吊るして干す、切り干し芋作り体験も行う。体験と同時に利用者が戦中・戦後の食糧難について話す。奥田さんによると体験教室の狙いは「紙芝居や話を聞くだけだと受け身になってしまう。実際に体験することでよりリアルに戦争中の体験を感じてもらう」ことだという。参加した小学生たちは戦争による食糧難の辛さと自分たちの食生活が恵まれていることを一層認識したという。

戦中・戦後の生活体験教室での干し芋作り=奥田俊夫さん提供
戦中・戦後の生活体験教室での干し芋作り=奥田俊夫さん提供

ただ、2020年と21年は伝承活動を行うことが出来なかった。利用者のお年寄りは新型コロナウイルス感染症の重症化リスクが高いことから外部との交流は控えざるを得ない。文集『戦争の思い出』の聞き取りと編纂こそ行ったものの、戦争体験講話や生活体験教室を行うことは出来なかった。奥田さんは感染状況によるものの、2022年はやりたいと話している。ただ、コロナ禍だろうと戦争体験者の高齢化は着実に進んでおり、戦争体験を話せる人の数は減っている。

「戦後80年が近づき戦争のことを話せる人が本当に少なくなっています。いなくなった時にどう伝えるのか真剣に考える時期が来ています」。そう話す奥田さんが始めているのが地域にある史跡を活用した戦争伝承だ。西伊豆町白川に「中国人殉難者慰霊碑」という石碑がある。戦時中、白川にあった仁科鉱山ではアルミの代用品としてみょうばん石を採掘していた。そこで働かされたのが、中国出身の人々だった。河北省などから来た200人以上の中国人のうち半数以上が亡くなっている。仁科鉱山の死亡率は全国のどの鉱山よりも高いという。[vii]その犠牲になった中国人を追悼するため地元の人々が建立したのが「中国人殉難者慰霊碑」なのだ。

奥田さんは2012年、仁科鉱山であったことを描いた紙芝居「あなたを忘れない ~太平洋戦争中の白川で~」を制作した。その後、この慰霊碑の前などで地元の小学生に向けて読み聞かせを行っている。「被害の歴史だけでなく加害の歴史だって知らなくてはいけない」という思いからだ。他にも海岸線沿いにある海上特攻兵器「震洋」の格納庫跡地を利用した伝承も行っている。「体験者が話さなくても戦跡や石碑があることで、そこで起きたこととしてリアルに伝えることが出来ます。今後はこのような伝承を、戦争を体験していない人がしていく必要があると思います」。そう奥田さんは訴える。

紙芝居「あなたを忘れない」=奥田俊夫さん提供
紙芝居「あなたを忘れない」=奥田俊夫さん提供

奥田さんの話を聞きながら「加害の歴史も伝承しなければいけない」という言葉が胸に残った。下田にも空襲で朝鮮人労務者が20人以上亡くなったという証言が複数残されている。今回戦争に関する話を聞く中でも、「戦中や戦後すぐはかなりの数、朝鮮半島出身者が下田にいた」と話す人がいた。しかし、これには公式な記録がない。朝鮮半島から労務作業のために下田に来て、そこで空襲に遭い亡くなった人の無念とはどれほどのものだったのだろうか。彼らの犠牲が証言ベースにとどまるという事実そのものが太平洋戦争における日本の加害者としての側面を浮き彫りにしているように思う。被害だけでなく、加害の伝承も必要だと強く感じた。

第8章 下田でも戦争伝承を

下田にも戦争伝承に取り組もうとしている人がいる-。荒井福美先生が私にそう教えてくれた。忙しい中、数年前に卒塾した私の卒業制作を気にしてくれていたことに感謝しながら、私はその人への取材のため、約束の喫茶店に向かった。

加藤さんは下田で戦争体験伝承イベントを開こうとしている=2021年11月6日、筆者撮影
加藤さんは下田で戦争体験伝承イベントを開こうとしている=2021年11月6日、筆者撮影

喫茶店で待っていたのは看護学校教員の加藤章子さんだ。加藤さんは下田の戦災を主な題材とした「戦争と平和展」を開こうと奔走しているという。加藤さんはもともと「戦争と平和展」を下田で開きたいと考えていた。そんな中、2021年8月15日の終戦の日に見た映画が実施を決意させた。「『長崎の郵便配達』に感動したんです。戦争に対して善悪を示すのではなく、行間で考えさせられる映画でした。そして、その上映会の帰り、市の文化会館で映画にも登場した背中が焼けただれた子どもの写真を見ました。それを見た時、しっかり平和の大切さを考えなければいけないと思ったんです」。

「戦争と平和展」で実施しようと考えているのが子どもたちを対象としたワークショップだ。十数人の子どもたちの参加を募って、戦争体験者への聞き取りとそのまとめを行おうと考えている。「子どもたちが聞き取って、戦争について伝えることで親世代も偏見なく話を聞いてくれるのではないかと思います」と加藤さんは話す。親と子、両方の世代に戦争について知ってほしいのだという。企画展が成功すれば毎年の実施も考えている。「まずは今年の成功にかかっていますが、形を変えてでもなんとかやっていければと思っています。そして出来れば今小学生の娘世代が大きくなったら引き継いで続けていってほしいです」と展望を話す。

「戦争をリアルなものとして、身近なものとして捉えてほしいと思います」。加藤さんが下田の戦災伝承に取り組もうとしている理由だ。「伊豆市で訪問看護師をやっていた時、狩野川台風を体験した利用者の方から話を聞く機会がありました。とても真に迫ってくる話で圧倒されました。教科書にいくら戦争があったと書いてあってもなかなか実感することは出来ません。身近な郷土でも戦争があったということを体験者の方から直接聞くことで、戦争をリアルな身近で起きかねないものとして捉えてほしいのです」。現在、「戦争と平和展」は開催のための準備が進められている。2022年8月の実施を目指しているという。どのような会になるのか、開催されたら見に行ってみたい。

第9章 どう語り継いでいくべきか

伝承のために活動する人の取材を終え、改めて疑問に思ったことがあった。それは下田市内の小中学校においてどの程度、郷土の戦災教育が行われているのかということだ。自分自身の小中学校時代を思い出してみても話を聞いた覚えはない。(だからこそ、この取材を始めたとも言えるが)そこで戦災教育の実施状況を知るために、下田市教育委員会に取材をすることにした。早速問い合わせてみたところ、市教委を通じて下田市内に全11ある小中学校(7小学校・4中学校。ただし2022年度から4中学校は1つに統合される)に戦災教育の実施状況についてアンケートを行ってもらえることとなった。そこで私は「地域の戦災教育を行っているか」「戦争体験者の講話を聞く機会があるか」「下田市が戦後50年でまとめた冊子『海鳴り』は学校図書館の蔵書にあるか」という3点を聞くことにした。

下田市内の小中学校における戦災教育の実施状況(筆者作成)
画像123※1・・・行っている(ある) ※2・・・行っていない(ない) ※有効回答数11

数日後、市教委から届いたアンケートの結果は次のようなものだった。アンケートは調査した市内11小中学校全てから回答を得た。「地域の戦災教育を行っているか」「戦争体験者の講話を聞く機会があるか」という設問に対しては全11の小中学校全てが「行っていない」と回答、「『海鳴り』は学校図書館の蔵書にあるか」という質問に対しても「ある」と答えたのは1小学校のみだった。また、市教委によると郷土史の副読本『郷土 しもだ』にも下田の戦争に触れた記事はないという。取材からはなかなか地元の学校においては郷土の戦災教育が行われていない現状が浮き彫りになった。

ただ、現状学習指導要領などで太平洋戦争期の郷土における戦災を教えなければいけないと定められているわけではない。小学校社会科の第6学年学習指導要領解説では「日中戦争や我が国に関わる第二次世界大戦については、我が国と中国との戦いが全面化したことや、我が国が戦時体制に移行したこと,我が国がアジア・太平洋地域において連合国と戦って敗れたこと,国内各地への空襲,沖縄戦、広島・長崎への原子爆弾の投下など、国民が大きな被害を受けたことが分かることである」とだけしか書かれていない。[viii]中学校社会科歴史の学習指導要領解説では「戦時下の国民の生活については、身近な地域の事例を取り上げるなどして,戦時体制下で国民の生活がどう変わったかについて着目するとともに、平和な生活を築くことの大切さに気付くことができるようにする」[ix]と書かれてはいるものの、郷土の戦災まで触れる必要性は定められていない。

文部科学省に問い合わせたところ、「郷土の戦跡など含めて生徒の興味関心に応じて様々な資料に触れるよう定めている」としたものの、基本的には学習指導要領とその解説に書かれている以上に郷土の戦災について教えるようには求めていない様子だった。このような中で他にも教えるべきカリキュラムがある中で東京大空襲や原爆投下、沖縄戦などその地域に深い爪痕を残している戦災でなければ、なかなか授業で時間を割いて教えることは難しいことを容易に推察される。

とはいえ、学校において郷土の戦災に関する教育が行われていない現状が望ましくないのは事実だろう。戦争体験者の高齢化が進む中で、今後、家族に頼った戦争体験の伝承はますますの先細りが予想されるからだ。その点で、下田市遺族会副会長の村田さんは敬聴すべき主張をしていた。村田さんは戦争の記憶を受け継ぐためにも「学校で地元の戦災を教えるべきだ」と話し、「政教分離し、追悼式典を市が主催という形になれば子どもたちも参加できるようになるのではないか」と提案している。慰霊祭を市に移管すべきという村田さんの主張にはより多くの人に参加してほしいという意味も込められていたのだ。

実際に小中学生が自治体の主催する追悼式典に参加しているケースはある。例えば、沖縄全戦没者追悼式や広島平和記念式典などでは毎年地元の子どもたちが平和への誓いを述べている。[x][xi]広島平和記念式典などは全国各地から子どもたちが参加している。[xii]あまり喜べることではないが、下田市の児童・生徒数は減少し続けており、市内全て合わせても1学年の人数は100人~150人ほどだ。[xiii]毎年市内の小学校6年生が追悼式に参加することは十分に可能だと思われる。

下田市内に残る戦跡(『海鳴り』収録の「下田の戦争遺跡」を元に筆者作成)
画像168

また、「みんなの家」の奥田さんが力を入れる戦跡を利用した戦争伝承も可能だ。あまり知られていないが、下田市内にもいくつか戦跡が残っており、戦没者の慰霊碑も市内に存在している。分かりやすい戦跡が「ハリスの小径」沿いにある海上特攻隊の格納庫跡だ。幕末期アメリカ総領事館として使用された玉泉寺のある柿崎から須崎に向けて伸びる長さ620mほどの遊歩道である「ハリスの小径」。初代駐日アメリカ公使タウンゼント・ハリスが散歩道にしていたことからその名が付けられたこの道沿いにはいくつもの大きな穴が開いている。穴の中に入ってみると、その広さと複雑さに驚かされる。小径にはこの格納庫を建設した海軍特別少年兵部隊のОBにより建てられた記念碑もある。

この跡を見れば、下田が戦火に巻き込まれたという事実がリアリティを伴って伝わるのではないだろうか。同時に日米関係始まりの地に、アメリカとの戦争のための軍事基地が作られたという事実も学ぶことが出来る。市内には他にも撃沈された輸送船「自在丸」の慰霊碑や終戦2日前に空爆を受け沈んだ潜水輸送艇の慰霊もある。「海鳴り」などを使って下田の戦争について事前学習をしたうえで、これらの史跡を巡る遠足を行うなどという伝承学習の実施も考えられる。

「ハリスの小径」に残る海上特攻隊の格納庫跡=2021年2月27日筆者撮影
「ハリスの小径」に残る海上特攻隊の格納庫跡=2021年2月27日筆者撮影

ただ、このような戦争の記憶を伝承するためには授業時間と教材の確保が求められる。現在の歴史教育において郷土の戦災の教育が各学校に求められているわけではない。だが、戦争と平和について考えるうえで生まれ育った郷土を襲った戦火について知ることは必要不可欠だと思う。太平洋戦争中、日本は約2000回の空襲を受け、約2040万発もの焼夷弾が投下されたとされる。犠牲者は、分かるだけで45万9564人に上るという。[xiv]この2000回の中にはいくつもの「忘れられた空襲」があるはずだ。戦後80年が近づき、これらの空襲が本当に「忘れられた戦災」になってしまう前に、小中学校における郷土の戦災教育を定めるなど文部科学省には何らかの方策を講じてほしい。

この取材を終えて私は改めて下田の街を歩いた。歴史あるなまこ壁が並び、河岸には多くの漁船が停泊するこの港町を見ていると約80年前にここで100人以上の人が亡くなったとはとても思えない。私はふと東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南三陸町で語り部の方から聞いた言葉を思い出した。「復興した町だけを見てもそこに津波が来たことは想像できません。だから、私たちが震災を語り継がないといけないんです」。戦災も同じだと思う。終戦から80年近く経った今、街には慰霊碑と防空壕・格納壕くらいしか戦災の跡はない。だからこそ、誰かが語り継がないといけないし、学んでいかないといけない。そしてその役割は私自身にも課せられていると強く思う。


注釈

[i] 読売新聞戦争責任検証委員会(2006)『検証 戦争責任Ⅱ』中央公論新社 pp.238-239

[ii] デジタル大辞泉(Weblio辞書)https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89(2022年1月25日最終閲覧)

[iii] 静岡新聞編(1975)『大空襲-郷土燃ゆ- 静岡県戦災の記録』静岡新聞社 pp.185-pp.186

[iv] 竹内康人(2014)『調査・朝鮮人強制労働 3 (発電工事・軍事基地編)』社会評論社pp.229-pp.232

[v] 世界大百科事典 第2版「遺族会」の解説(コトバンク)https://kotobank.jp/word/%E9%81%BA%E6%97%8F%E4%BC%9A-1145978(2022年1月25日最終閲覧)

[vi] 読売新聞オンライン「遺族会、『時代の波に逆らえず』解散相次ぐ…高齢化で会員減少・資金集め困難」https://www.yomiuri.co.jp/national/20200815-OYT1T50116/(2022年1月25日最終閲覧)

[vii] 室田元美(2018)「ルポ土地の記憶 戦争の痕跡は語り続ける」社会評論社pp.80-pp.85

[viii] 文部科学省(2017)「【社会編】中学校学習指導要領(平成29年告示)解説」pp.123

[ix] 文部科学省(2017)「【社会編】中学校学習指導要領(平成29年告示)解説」pp.117

[x] 読売新聞「沖縄の惨禍 次代に継ぐ 戦後76年 慰霊の日」2021年6月24日東京朝刊

[xi] 読売新聞「広島原爆忌『小さな力でも世界変えられる』こども代表」2021年8月6日大阪夕刊

[xii] 読売新聞「児童ら平和式典へ出発 甲賀」2015年8月6日大阪朝刊滋賀版

[xiii] 2019年5月1日時点での小学6年生児童の人数は136人ほど

[xiv] NHKスペシャル取材班(2018)『本土空襲全記録』角川書店 pp.4-pp.7


参考文献

・下田市史編纂委員会編(1988)『図説下田市史』下田市教育委員会

・静岡県編(1997)『静岡県史 通史編 6 (近現代 2)』静岡県

・終戦五十周年記念誌編集委員会編(1996)『海鳴り-昭和の戦争と下田-』下田市

・静岡新聞編(1975)『大空襲-郷土燃ゆ-静岡県戦災の記録』静岡新聞社

・朝日新聞静岡支局編(1985)『聞き書き静岡の戦争』彩流社

・静岡平和資料館の設立をすすめる市民の会編(1995)『静岡の空襲』静岡平和資料館の設立をすすめる市民の会

・静岡県戦争遺跡研究会(2009)『静岡県の戦争遺跡を歩く』静岡新聞社

・竹内康人(2014)『調査・朝鮮人強制労働 3 (発電工事・軍事基地編)』社会評論社

・室田元美(2018)『ルポ土地の記憶 戦争の痕跡は語り続ける』」社会評論社

・みんなの家編(2021)『2021年版 戦争の思い出』NPO法人みんなの家

・読売新聞戦争責任検証委員会(2006)『検証 戦争責任Ⅰ』中央公論新社

・読売新聞戦争責任検証委員会(2006)『検証 戦争責任Ⅱ』中央公論新社

・NHKスペシャル取材班(2018)『本土空襲全記録』角川書店

・文部科学省(2017)『【社会編】中学校学習指導要領(平成29年告示)解説』

・文部科学省(2017)『【社会編】中学校学習指導要領(平成29年告示)解説』

・伊豆新聞、伊豆日日新聞、静岡新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞の各紙

このルポルタージュは瀬川至朗ゼミの2021年度卒業作品として制作されました。