横浜・寿の2020年 ―「日雇い労働者の街」はいま
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横浜市にある寿地区は東京の山谷・大阪のあいりん(釜ヶ崎)と並ぶ「日本三大ドヤ街」のひとつに数えられてきた。「ドヤ」は日雇い労働者たちをターゲットとした簡易宿泊所に対する、今では差別的・不適切ともされる呼び名だ。日雇い労働者向けの簡易宿泊所の環境が悪かった時代に、住人たちが自嘲的に「宿」という言葉を逆さに読んだのが始まりと言われる。「危険な街」などと紹介されることもあるこの地域だが、近年変化を迎えている。現在の寿地区の様子について、2018年冬から2020年春まで取材した。(取材・文・写真=川野耀佑)
はじめに
汚れた道路の端にしゃがみ込み、酒を酌み交わす男性たち。街を歩く人はほとんどが高齢の男性だ。無機質なコンクリートの建物たちに阻まれ、どこか街は暗く見える。夜を照らすのはイルミネーションでもなければネオンサインでもなく、建ち並ぶ木造の居酒屋やスナックの看板だ。静かな街に、スナックからの歌声が響く。自販機では酒が百円で買える。歩いていると汗のにおいを感じるが、それをかき消すような、強い洗剤のにおいも気になる。見渡せば、街中のあちらこちらにコインランドリーがある。街を一周すれば必ずといっていいほど、パトカーか救急車を一度は見かける。「毎日ですよ。そういう街なんで」。救急車に搬送される老人を見ながら、住民の男性はそう話していた。
寿地区において、簡易宿泊所の相場は現在1泊2000円程度である。意外に思われるかもしれないが、寿地区は横浜市の中心部にある。プロ野球「横浜DeNAベイスターズ」の本拠地である横浜スタジアムに行ったことのある人は、その場所を思いだしてほしい。三塁側のスロープを降り、横浜公園を関内駅方面へ出る。不老町の信号を左折し、たった300m歩けば、左手には福祉施設「かながわ労働プラザ」、そして右側に寿地区の簡易宿泊所が並ぶ。
「美しい観光地」の隣に
私が横浜市内に住み始めたのは小学校入学のときだった。以来、高校を卒業するまで「横浜」を「美しい観光地」としてしか捉えていない自分がいた。しかし、大学生になって行動範囲が広がり、横浜の違う顔を見るようになった。歓楽街として知られた日ノ出町では、ノスタルジーを感じる、みなとみらい地区とは全く趣の違う側面の横浜を知った。横浜の街中を歩く中で、日雇い労働者の街である寿地区が近年、その姿を大きく変えようとしていることに興味を持った。
外国人旅行客の流入が始まり、2019年6月には「健康福祉交流センター」などの複数の公共施設が完成した。そのように変わっていく寿地区だが、容易に立ち入りづらいイメージのせいかその資料は十分とは言えず、特にインターネット上には少ないと感じる。本ルポでは寿地区は今、どのような姿となっているのかを調査・取材し、記録として残しておきたい。
第1章 横浜・寿地区の歴史
なぜ寿地区は「ドヤ街」となったのか。寿町の歴史について調べてみた。
戦後復興の原動力となった寿地区
1873年、石川町周辺一帯の沼地が埋め立てられ、それぞれに名前が付けられた。その一つが寿町だった。同時に名付けられた万代町や不老町と同じく、新たな街にふさわしい縁起の良い名前である。第二次世界大戦後は連合国軍総司令部(GHQ)による接収の対象となり、1953年に元の所有者に返還された。横浜港は首都に近く、当時から日本を代表する港だった。港湾の復興は急務である。この復興の力となったのが、日雇労働者たちだった。
そのことは、日雇い労働者の地位向上のため活動した川瀬誠治さんを悼んで1987年に編纂された追悼文集『ことぶきに生きて』の中に詳しく紹介されている。少し長くなるが引用させていただく。
「これらの軍貸の揚陸には、港湾施設の破壊された中で、厖大な労働力を要し、毎日一〇〇〇人の日雇労働者が雇用されたと言われる。戦後横浜の日雇労働者(俗に言う浜のプータロー)の淵源の一つは、明らかに横浜―神奈川の米軍軍事基地化による大量雇用にある。二番目には、戦後の食糧難の中で、厖大な食糧が横浜港から荷あげされたことである。例えば全国の学校給食の原料の大部分をハマのプータローが陸あげしていたことは、ほとんど間違いない。しかも、人力で、人海戦術でやっていたのであろう」[1]
寿地区の元の住民はというと、彼らの多くは小売業や人夫部屋を営んでいた。そういった人々は接収の間に他の地域で仕事を手にし、寿地区に戻れなくなっていた。横浜港に宿が必要なのに泊まる場所はない、しかし人が戻らず空いた土地がある。この条件から寿地区の土地が売買され、横浜周辺に点在していた簡易宿泊所や自由労働者向けの商店などが寿地区に集中していった。
そして1956年、桜木町にあった職業安定所が移転され、これが決定打となり、寿地区は日雇い労働者の街として定着した。
周辺の発展から取り残される
その後寿地区は長い間治安が悪い地域とされ、実際に違法薬物取引や賭博の温床になっていると言われてきた。周辺はといえば、繁華街・伊勢佐木町が復興し、中華街が観光地として発展し、道路を挟んで隣と言える横浜公園には横浜スタジアムが完成した。関内・みなとみらい地区は横浜の行政・観光両面での中心として変化をし続けている。しかし、寿地区は周辺地域の華やかな変化からは取り残されてきた。
時代を経るにつれかつての港湾労働者たちは高齢化し現役の労働者ではなくなってきた。寿地区にも変化が訪れている。
第2章 寿地区の現状は
「日雇い労働者」「福祉のまち」「生活保護」「高齢化」。寿地区を表すキーワードはこういったものだ。それを示すデータはあるか。横浜市健康福祉局生活福祉部生活支援課寿地区担当が毎年、「寿地区社会調査」を実施している。調査票と聴き取りの方法を使って、寿地区の簡易宿泊所に住む人々や簡易宿泊所の実情を把握する調査だ。そのデータを中心に寿町の現状を紹介してみよう。
半分以上は高齢者、子供は1パーセント未満
まず目を引くのが高齢者の割合だ。簡易宿泊所に居住する人は平成30年度(2019年度)調査において、5716人。その中で65歳以上人口比率は55.4%だった。少なくとも寿地区の簡易宿泊所に宿泊する半数以上の人々が65歳以上ということになる。この年の国勢調査で全国では28.1%、横浜市では24.2%であるということを踏まえればかなり高い数値だといえる。しかも寿地区の65歳以上の95%以上が生活保護受給者[2]だという。
それに対し子供はどれくらいいるのだろうか。平成30年度(2019年度)の調査で中学生以下の児童数は「1~9」となっている。約6000人の宿泊者の中でわずか0.1%程度ということになる。これは7年連続の記録だ。現在の感覚だと簡易宿泊所に子供がいないのは自然に感じるが、昭和44年(1969年)の時点では505人、平成元年(1989年)でも78人いたので、著しく減少している。
「ドヤ」よりも「簡易宿泊所」の名が似合う時代に
時代に合わせ、寿町も変化している。簡易宿泊所の居室数は8286室、ここ15年程大きな変化はない一方、建て替えに合わせ設備は改善されている。平成11年度調査において、エレベーターは102軒中18軒にしかなかった。これが今では121軒中71軒にある。また、身障者用トイレも2軒から32軒に、エアコンに至っては19軒から108軒に増加した。「ドヤ」よりも「簡易宿泊所」の名が似合う時代となっている。
データを見ると確かに寿地区は横浜市の他の地区とは違った役割を果たす街であることが分かった。しかし一方でデータは、寿地区には様々な変化が起きていることも示している。イメージのみで判断せず、やはり足を運んで実情を見るべきだ。
第3章 簡易宿泊所に変化 ヨコハマホステルヴィレッジ
明るい照明に照らされる部屋、フローリングの床。キャスター付きの椅子とライト付きの机では、Wi-Fiの利用が可能であるため仕事もできる。寝る時に布団を敷く必要はなく、ロフトベッドで寝ればよい。寿地区に南東の石川町側から入るとすぐに「ヨコハマホステルヴィレッジ」の建物が目に入る。プロジェクト型のホステル・ゲストハウスと位置づけられている。寿地区の簡易宿泊所での変化の先駆けといえる宿泊施設だ。
アーティストがデザインした部屋も
利用者はインターネットから予約し、当日、ヨコハマホステルヴィレッジの受付を訪れチェックインを済ませる。ただし、ここには受付と交流会場があるだけだ。宿泊客は主に受付の建物の向かいにある簡易宿泊所「林会館」内の宿泊ルームを利用する。林会館自体は50年以上前から続く昔ながらの簡易宿泊所だが、その4階と5階をヨコハマホステルヴィレッジがリフォームした上で管理しているのだ。部屋の種類はシンプルな畳の和室の他、冒頭の洋室スタイルのビジネス室など。さらに地元横浜で活躍するアーティストにデザインを依頼したクリエイターズルーム「みず の なか から」も特徴的だ。
簡易宿泊所の部屋は、畳の上に小さな窓と冷蔵庫、エアコンがあるだけの殺風景な印象を与えるものが多いが、この部屋は違う。中に入ると、水色を中心とした壁紙で囲まれる。公式サイトでは「水の底に沈んでいる感覚を思い出しながら壁紙を張り進めた」と書かれている。また通常のガラスの窓に青く光の透けるカーテンがかかっている。宿泊した私は、カーテンを通して光が差し込むだけで、窓からさす光の印象が大きく変わることに驚いた。そのほか、シャワーやトイレは共同なのだが、館内の内装は「ドヤ」のイメージとは大きく異なっている。
ヨコハマホステルヴィレッジを運営するコトラボ合同会社は2007年に設立された。コトラボ合同会社の社員で、ヨコハマホステルヴィレッジに勤務している齊藤一樹さんによると、林会館の4階・5階部分の運営などを通した寿町のまちづくりへの貢献が主な目的だったという。きっかけはコトラボ合同会社代表の岡部友彦さんが、大学院生時代に寿町を訪れたことだった。「当時の寿町の簡易宿泊所では、空き部屋が問題になっていました。林会館のオーナーの方も空き部屋問題に悩んでおり、お話を聞く中で岡部は、なんとか協力する方法がないか、と考えたそうです」。
岡部代表が協力する方法として思いついたのが、従来のように日雇い労働者向けの宿泊所だけでなく、あらたに観光客を呼び込むことだったという。インターネット予約により寿地区の外から予約できるようにする。その際、外国人観光客を呼び込めるよう、英語の案内やFacebookを利用する。ヨコハマホステルヴィレッジが管理する4・5階部分の収益は林会館と分ける。部屋もリフォームし、先述のようなバリエーションにより様々なニーズにこたえる。また受付のスペースはラウンジのような作りにし、利用者だけでなく地域の人が集まり、くつろぐことができるようにした。この手法で、コトラボ合同会社の前身となるプロジェクトを2005年から開始した。
このようなコンセプトが林会館の空き部屋解決に貢献し、土曜日はほぼ満室になるという。平日は海外からの観光客が多く、土日は横浜観光、ライブ、野球観戦といった様々な目的の日本人が訪れ、中には筆者のように取材や調査の目的の者もいるという。「あとは韓国からの視察もたまに来ます。韓国では『置いてけぼり』になってしまった街をどう盛り上げるかということが問題になっているらしく、モデルケースの一つとして評価してもらっているようです」と齊藤さんは話す。
「新たな人の流れを」
忙しく活動している岡部代表には少しの時間しかお話を聞くことができなかった。その時に「金の為だけじゃビジネスはできないよ」と語っていたのが印象に残っている。ヨコハマホステルヴィレッジが重視してきたのは収益以上に、「新たな人の流れを作る」ということだった。それは寿地区外の人々や、外国人観光客を呼び込むということだけでなく、スタッフの採用にも表れている。
水田州一さんは約一年前から週2回ヨコハマホステルヴィレッジのスタッフとして勤務する代わりに、無料でヨコハマホステルヴィレッジに宿泊している「ボランティアスタッフ」として働いている。水田さんは、点の集合によって表現する点描画家で、勤務日以外はギャラリーでアルバイトをしながら点描画を描いている。留学先のイタリアで点描を知り、「ハマっちゃった」という水田さんは奈良県で会社員をしていたが、点描に時間をかけるため退職した。「親に会社辞めてどうするの、と言われ、家出みたいに出てきちゃった。でも時間的にもあまり拘束されたくなく、などと様々考えている中で、寿町とヨコハマホステルヴィレッジについて知った」。水田さんの面接も担当した齊藤さんは、「夢追い人や目標を持つ人に住んでもらい、活動の力になりたいという、ヨコハマホステルヴィレッジの求めている人物像と合致していた」と振り返る。
このようにアーティストなどを目指す、「ドヤ街」や寿地区について詳しくなかった人がスタッフとなることも多い。社員である齊藤さん自身も寿地区について知るきっかけはヨコハマホステルヴィレッジだったと言う。「インターネットでヨコハマホステルヴィレッジについて知り、ヨコハマホステルヴィレッジが貢献しようとしている空き部屋問題が地元である山梨県にも共通する問題だと感じた。将来的には山梨に帰りたいとも思っているので、その際のための勉強にもなると思い入社した」と話す。その他、一般のアルバイトやインターン生も受け入れている。ヨコハマホステルヴィレッジは客としてだけではなくスタッフとしても、寿地区について知る機会を提供している。
「KADOBEYA」事業などを次々と展開
「街づくりの会社」だというコトラボ合同会社はその他にも事業を展開している。興味深いのが寿地区を離れた南区の住居を寿地区の人々に貸し出す「KADOBEYA」という事業だ。「寿町の人々は生活保護で暮らしている人が多いと思うのですが、仕事を見つけて出ていきたくてもなかなか抜け出せないという人もいる。しかし外に出たくても電気代や公共料金の払い方からわからなかったり、働きたくても寿町の住所では面接で断られたりすることもあるらしいんです」。
齊藤さんによると、そのような人々が寿地区の外である南区の住所を得て、簡易宿泊所より安い家賃で一人で生活することはステップアップの力となるという。また、生活保護費という社会コストの削減に対する一つの提案にもなっている。「実際に外に仕事を見つけた人もいる」という実績も作ることができたそうだ。
ヨコハマホステルヴィレッジではその他にも週に一度の英会話教室や、月に一度のパーティなど地域の内外から人を集めるイベントを行っている。現在は水田さんが企画の中心となって運営しており、参加者はスタッフやその日の宿泊客の他、元スタッフや元宿泊客がリピーターとなってパーティのために集まる例もある
4年前からほぼ毎回参加している男性は「横浜でゲストハウスを探している間に見つけた。知らない人だらけだったが、州ちゃん(水田さん)らのおかげで気楽に話せるのでいつも来ている」と話す。さらに、元スタッフ同士で結婚したという夫妻もよく訪れる。夫婦の出会いの場所でもあるので「結婚式の前撮りもここでした」と強い愛着を抱いている。イベントは、水田さんの作る料理と、パーティグッズを用いたゲームなど、にぎやかだ。
ラグビーワールドカップの観客もパーティに参加
当日の宿泊客が飛び入りでくる例としては外国人観光客である場合が多い。2019年11月のパーティはちょうど横浜国際総合競技場でラグビーワールドカップ2019準決勝のイングランド対ニュージーランド戦が行われ、イングランドが勝利した日だった。ニュージーランド人の男性2人が「本当に残念だったけどいい大会だった。日本にありがとうだよ」と肩を落として部屋に向かったと思えば、大柄な男性が「僕はイングランドから来たんだ。やったー!」とガッツポーズをしながら入ってきて、「早く決勝のチケットを取らなきゃ。取れるか心配だ」と興奮しながら備え付けのパソコンで予約ページを開いていた。
多様かつユニークな人々が集まる点に魅力を感じて、私自身も2年前からの常連だ。齊藤さんは「パーティは、もともとヨコハマホステルヴィレッジに協力してくれる地域のおじさんのための誕生日パーティとしてはじめたが、最近は常連客や元スタッフなど通常20人ほどの人が集まり、交流の場になるなど新たなコミュニティの場にもなっている」。と語る。
第4章 「元労働者」が減る中で ホテルミライ
一方、従来から寿で簡易宿泊所を運営していた人々からも、寿地区外から宿泊客を呼び込もうという動きが見られる。寿地区の中心からはややはずれる長者町一丁目に位置するホテルミライを運営する株式会社未來の金井鋼二さんは、従来通り定住者向けを原則に運営する簡易宿泊所が多い中で「うちは一歩二歩先を行っていると思う」と話す。
入居者の減少から
金井さんは約1年前からホテルミライに携わっている。寿地区に生まれ育った31歳で、本業は5年前から湘南台で営む「アスリート整骨院」の院長だ。株式会社未來の社長である叔父に頼まれ、ホームページからの予約対応など主にシステムの分野でホテルミライを支えている。
祖母は同じ寿地区の簡易宿泊所「トクガワソー」の経営者。叔父がトクガワソーを受け継ぎ、家族経営の運営会社である有限会社メロディー・株式会社未來を設立した。株式会社未来は別の簡易宿泊所「みらい館」も建築している。そして2011年11月1日、「ホテルMM1」という簡易宿泊所だったところを買い、ホテルミライとしてスタートした。
ホテルミライが外部からの観光客を受け入れる方針となったのは約1年前。背景にあるのは入居者の減少である。「一つは(寿地区の)生活保護で暮らす元労働者の数が減ったということ。それともう一つは横浜市の生活保護支給額が下がったことですね」と金井さんは説明する。この現象は帳場の責任者としてホテルMM1時代から10年以上働く斎藤薫さんも感じている。「2、3年前までは人の出入りがあったのだけれど、今は出る人、というよりも亡くなる人の方が多い。年齢的にね。うちは一日2200円もらっている。そうすると支給額が下がって[3]以降は払えなくなって1700円くらいのところに行ってしまう。エレベーターがないとか、エアコンがないとか。そういうところに行くって言ってたけどね」。
ホテルミライも2階を女性専用フロアとするなど手を尽くすが、「14部屋あって2部屋しか埋まらなかった」と功を奏さなかった。しかし金額をはぎりぎりまで抑えている簡易宿泊所の性質上、75パーセントほどの部屋を埋める居住者が必要だ。厳しい逆風の中で、ホテルミライはついに2階を観光客向けにアレンジし、外から人を引き付ける挑戦をはじめた。その為にはウェブサイトの運営ができる若い力が必要となる。「そこで叔父から手伝ってくれないかと言われて。片手間ではないが、僕が力を貸すことにした」と振り返る。
本職は整骨院の院長
金井さんの本職は横浜から少し離れた湘南台にある「アスリートケア整骨院」の院長だ。ここで接骨院を運営しつつ、ウェブサイト運営などの面からホテルミライを支える。その名の通り院内にはスポーツ、とりわけ野球に関する品が多く、高齢者向けのイメージが強い多くの整骨院とは雰囲気が違う。湘南台駅から近いこの整骨院には、金井さんの母校でもある藤沢翔陵高校の学生を中心に、スポーツに関する悩みを抱える学生が通う。
金井さんは高校時代、野球部に所属していた。高校卒業後はスポーツに関する専門学校に行き、更に柔道整復師の専門学校にも通った。柔道整復師の資格も取得し、藤沢翔陵高校でトレーナーを続けているうちに、「翔陵高校の子たちを自分の手で治療してあげたい」という思いが生まれた。そのための場所として、湘南台駅からすぐ、藤沢翔陵高校にも近い場所にアスリートケア整骨院を開いた。
また、整骨院は治療の場である一方、商売としても成り立たせなければならない。金井さんはターゲッティングの面からも、スポーツ治療を手掛ける意味があると語る。学生の治療は比較的治療費が高くなる代わりに、回転率を追求しなくてもよいため丁寧な施術ができると説明する。
新たな「ホテルミライ」
この金井さんの自身の思いを叶えつつ、商売として成り立たせることも失念しないというやり方はホテルミライの新たな姿にも生かされている。
コンサルタントと相談し、カプセルホテルに変えるなどの案も出たが、できるだけ従来のものを活かすことにした。一方で、タオル・歯ブラシといったアメニティの提供や、コーヒーマシーン、シャワー無料など寿地区の簡易宿泊所としては目立つサービスを提供している。また、部屋にテーブルがあるというのも、小さな部分に見えるが作業をしたい人にとっては便利だ。「採算の観点からいえば、一日の単価が2250円あればあがり(収益)がある。ならば、観光の方々からもっと頂く以上サービスで差別化を図るべき」というのが狙いだ。
こうして始めた観光客の誘致は金・土曜は満室になるなど成功を収めている。金井さん自身も「意外と」と表現するように、当初の想定を上回る好調のようだ。部屋は8階まであるが、19年10月からは2階に続き3階も観光客向けの部屋とした。
しかし、寿地区の簡易宿泊所全体を見ると、ホテルミライのような変化への積極性は「あまりない」と金井さんは指摘する。経営者の高齢化が一因だ。寿地区の簡易宿泊所は戦後間もなくに簡易宿泊所を始めた一族がそのまま今も受け継いでいるのがほとんどだという。「65歳、70歳の人たちが新しくウェブサイトを運営し、予約サイトに登録するといったことは難しい。そもそも、現在2つある寿地区の簡宿組合同士の連携はなく、組合内でも連携はあまりみられない。組合内にも『このままではこの街がダメになる』といった空気はあるが、具体的な行動には出ない」と金井さんは話す。
「今はだいぶきれいになった」
寿地区で育った金井さんの目に今の寿はどう映るのか。金井さんの小学生時代の寿地区は、世間で噂されるような怖い一面もあったと振り返る。
「僕の小学校の頃はもっと寿が汚かったし、人もいっぱいいたし、怖かった。だから学内での差別の様なものも全くなかったとは言えないですね。でも寿の子で仲のいい子もいたし、寿の中にある学童にも遊びに行った。子供同士というより、家庭での教育が大きいと思う。母親から、あの信号より先は行っちゃだめだ、みたいな」
「今はだいぶきれいになりましたね。僕が小学校の頃、20年ほど前は子供では入れないような・・・そこら中で火が、焚火があがっていたり。今は警察官に注意されますが、当時は朝から路上に座って酒を飲んでいる人が結構いました。まだ汚いけど、全然きれいになりました」。
一方、斎藤さんは初めて寿を訪れた11年前と比較し、街の雰囲気は「それほど変わらないのではないか」と話す。「まあ昔を知らないからね。11年前にはもうだいぶきれいになっていた。ただ最近は建物が築50年、60年を迎えて、あちこちで建て替えが必要になっている。それが理由で建物がきれいにはなっているかもね」。
「ホテル共栄」の管理人の男性も、昔ながらの簡易宿泊所でも、外国の人が増え、1泊など短い宿泊客が増えたと話していた。従来の住民が減り、街が新しくなる中で、簡易宿泊所も変化を迫られている。
第5章「誰も死なないように」 寿公園
100人以上が参加した寿公園での炊き出し
2020年1月4日。この日、私は寿公園で行われる炊き出しに参加していた。16時に始まると、寿公園を囲むように並んでいた100人を超える人々が一斉に寿公園に流れ込んできた。大根に白菜、人参の入った炊き出しの雑炊は、想像していたよりもボリュームが多く、満腹になる。しかし、炊き出しにならぶ人々の多くは黙々とものの1分ほどで食べ、「ありがとう」と私に食べ終わった食器を渡す。中には「いやもう一回・・・」などと言い、長い炊き出しの列に並びなおす人もいる。普段は週に1度、金曜日の13時から炊き出しが行われるこの寿公園の北500メートルほど先には、横浜スタジアムが、1km先には中華街がある。
私自身、炊き出しのボランティアを最初から考えていたわけではなかった。
寿公園を囲むように並んでいた人のほとんどは50代よりは上だろうと思われた。白髪頭が目立ち、着ている服は決して上等ではなく、汚れている人が多かった。並ぶ列のなかには40人、50人に一人くらいだろうか、高齢の女性や、30代程度の若い男性の姿も見られた。
最後尾で列を整理する女性に何の列か尋ねると年始の炊き出しだと教えてくれた。年末年始は行政サービスが停止する。支援を受けられない中でも「誰も死なずに冬を越す」ために実施しているという。炊き出しのほかにも医療相談、法律相談といったブースもある。「よかったら手伝いだけでもしていきませんか」と誘われ、ちょうど数分後に始まるという炊き出しの手伝いをさせていただくことになった。
長野の高校生もボランティア参加
運営する「寿越冬闘争実行委員会」は寿日雇労働者組合を中心に数個の団体で構成される。キリスト教会関係の団体もあれば、6歳くらいの女の子が反原発のビラを配っていたりもした。
ボランティアの人には様々な人がいた。私は「なんでもきいて」とひげを生やした恰幅のいい男性を紹介された。「がっちゃん」と呼ばれる彼は寿町に転勤で引っ越してきて1年ほどになるが、前にも2年半ほど住んでいたという。がっちゃんのように寿地区の住人も、ボランティアで参加している。
全体に高齢の人が多い中で、20代ほどに見える男性が数人いるのが気になった。3人で雑炊を食べていたので話しかけると、高校生だと言う。よく見れば高校生らしく陸上部のジャージを着ていたが、成人と誤解するほどに落ち着いた話し方で、寿地区についてもよく知っていた。「高校の先生にこの街にすごく関心が強い人がいて、紹介を受けて参加した」と話す彼らの高校は、驚くことに長野県の上田だと言う。上田から横浜までボランティアに来ることに私が大変驚くと、「まあ、暇なので」と照れ笑いし、高校生らしいかわいらしさも見せた。
炊き出しの会で食器洗いを担当していた男性は人のよさそうな笑顔が印象的だった。「初めての方ですか。どうでしたか」と話しかけられたので、人の多さや食べるスピードの速さに驚いたと話すと、「でも今回は支給日の関係でぜんぜん少なかったんですよ。正月のときで千二百数十食くらい。この公園の外どころかぐるっと取り囲むくらい並ぶ」と教えてくれた。
炊き出しは1時間ほどで終わり、撤収となった 先ほどの高校生たちから「あの赤いジャンパーの人ならいろいろ知っていますよ」と紹介された男性は寿日雇労働者組合の方だった。この炊き出しは年末年始以外にも毎週金曜日に実施している。「ずーっとどんな天候の時も休んだことがないんですよ。雪の日も雨の日も。26年間1回も休んだことがない。オイルショックの不況をきっかけにずっと」と自慢げだ。
日雇い労働者の今
それにしても、現在日雇い労働者の人々はどのように暮らしているのか。後日、寿地区の運営の中心的存在である施設、寿生活館に伺い、話を聞いた。寿日雇い労働者組合のドアをたたくと、偶然にも「赤いジャンパーの人」が座っていた。彼が話してくれたのは、もはや寿は日雇い労働者が仕事を見つけるための街ではなくなっているという現実だった。
「バブル崩壊と携帯電話登場が転機に」
かつての日雇い労働者は、「日々雇われ、日々解雇される」というスタイルのもと、自由に働いていたという。横浜港に仕事がなくなれば山谷(東京)へ、大阪へ。また横浜に仕事ができれば横浜へ。この働き方で生計を立てることができた。そのような日雇い労働者にとっての転機はバブル崩壊だった。
「ガクッ、と仕事が少なくなった。しかも、だんだんと日雇い労働者は高齢者ばかりになっていく。そして、携帯電話の登場で、いよいよ寿から仕事は無くなった」。
携帯電話は求職のパターンすら変えた。これまで仕事は寿の職業安定所に出ると、早い者勝ちのように受注されていった。しかし携帯電話の登場により、雇用主は労働者と直接連絡が取れるようになった。ただでさえ高齢者の街。携帯電話があれば気心知れている上に、腕の程度や年齢も判る相手に直接交渉できる。「今寿で日雇い労働者が生計を立てようとすると、船舶関係の仕事になる。しかしそれを請け負う人は寿の外の人が多い。彼らが、『あぶれ金[4]』などのために寿の雇用保険手帳を持っているだけだ」。と指摘する。
炊き出しの際に渡された「第46次寿越冬闘争突入集会 基調報告(案)」によると、国が運営する横浜港労働出張所業務課からの日雇い求人件数は、2018年12月から2019年11月の間でたった5件。県が運営する寿労働センターからの求人は、同期間で日雇い求人が484件、有期求人が468件、常用求人が372件。これは担当者からの聞き取りによるデータだというので必ずしも正確な数値ではないかもしれないが、少なくとも充分だと感じるレベルではないようだ。
ただでさえ多くはない求人も、これまでのような形では受けることができない。その上「あぶれ金」の給付基準の変更により、一つの事業所からの雇用だけではあぶれ金を手に入れることができなくなったため、「あぶれ金でぎりぎりやっていた人も厳しくなった。今、寿で日雇い労働だけで生計を立てている人はいなくはないが、例外的だ」。
赤いジャンパーの人からは、寿地区が日雇い労働者の街でなくなっていく過程について、親切に教えていただいた。最後に、近年外国人観光客などが寿に流入していることについて感想をうかがった。私としては、長く住む高齢者も多いこの街の人々はそういった外部からの変化を嫌うのではないかと思っていたのだ。
「金さえあればどんな人でも暮らせる。それが寿だから、いいんじゃないでしょうか。」
日々雇われ、解雇され、仕事を求めて次の地へ。そんなかつての自由労働者らしい回答に思えた。
第6章 未来の寿地区への願い
大観光地・横浜はまだまだ輝きを増す。異国情緒ある街並み、山下公園でデートをするカップル、中華街の賑わい、夜になると鮮やかなイルミネーションが彩る港町。ここ数年で横浜DeNAベイスターズはすっかり人気球団の仲間入りをし、試合日には3万人以上の人々が横浜スタジアムを訪れる。三渓園も野毛山動物園も観光ルートにある。ランドマークタワーやマリンタワーからは輝く横浜の夜景が楽しめる。そして2020年末には、桜木町駅から赤レンガ倉庫方面に向け、ロープウェーが開業する。
そのような中で、寿地区はこれからどうなっていくのだろうか。このまま高齢化が進むのか、あるいは地域に若い人々が入ってくるのか。「観光地」の中に取り込まれていくのか、それとはまた違った発展を遂げるのか。残念ながら、私には、寿地区のこれからについて何か予測の様な結論を出すことはできない。
しかし私は今回の取材や調査を経た今、寿町のこれからについて2つのことを強く願う。
地域住民の思いの尊重を
一つは寿地区の未来の姿は、行政や外部の人々が無理矢理に変えたものではなく、地域住民が望む姿となっていてほしいということだ。
こう意識するようになったきっかけは、ことぶき協働スペースで行われたセミナーでの横浜市中福祉保健センター生活支援課、生活支援担当課長の大川博昭さんの発言だった。大川さんは、横浜市で32年間働き、ケースワーカーや寿生活館などでも勤務経験のある方だ。私はその時、ルポに何らかの結論をつけたいという焦りから「これから寿はどうなっていくと考えているのか」という質問をした。それに対し大川さんからは「予想しないようにしている」という答えが返ってきた。
「この20年の間の寿の変化は予想もできないものだった。横浜市自身の対応の変化や地域の人々の行事への参加など。そう考えると、予想することによってかえって可能性を摘んだり、寿に対し『こうあってほしい』というものを反映させてしまうと思うし、寿を他者化することにもつながる」。
これを聞いて私は自分の未熟さを痛感した。寿地区に対して「外から変化をもたらすべきもの」という視点を持っていた。考えてみれば、これは傲慢な考えだった。街は何よりもそこに住む人のためのものだ。寿地区は変化し続けているし、変化が必要なのも事実だろう。しかし何よりも、今まで住んできた人々の思いが尊重された形で変化が進むことが重要だ。
大川さんは「ただ、変わるにせよ変わらないにせよ、かつての人々のいろいろな営みが今につながってきている、という視点だけは持たなければならない。この街の人々がこれからどういう街を作るかということだと思う」と指摘した。
「ドヤ街」の記憶を残す
もう一つは、どのような未来に進むとしても、これまでの寿地区の歴史が失われてはいけないということだ。
すでに書いたが、寿地区に関する信頼のおける資料は充実していない。また少しでも街のイメージを良くしようと言う努力や、その街出身の人々が差別を受けるなどの理由で、街の歴史のある部分が隠されて語られる場合がある。しかし寿地区の歴史は横浜や戦後復興の歴史と切り離すべきでない重要な歴史であり、またそこに住み苦しんだ人や、少しでも良い街にしようと努力した人や、この街にこそ居場所を見出した人々の歴史である。ここで生まれ育った人やここで生涯を終えた人がいる。そのような街や人についての資料は一つでも多く残されるべきだと考える。後から寿地区について振り返ったり学んだりをする際に、街の姿を語る資料の少なさから、ある時代の姿がわからず、その時代の歴史が失われることはとても不幸だ。
今回のルポが、将来の人々が2020年ごろの寿町の姿を知るための一助になることを願っている。
[1] 「ことぶきに生きて」(1987) 川瀬誠治君追悼文集編集委員会 p.193~194
[2] 「平成30年度統計年報」横浜市健康福祉局生活福祉部生活支援課寿地区対策担当p.3
[3] 平成27年、寿地区は生活保護住宅扶助の特別基準から外れたため、新たに寿に来る人は生活保護の金額が低くなった。
[4] 日雇い労働をする意思があるが、仕事を獲得できず就労できなかった日に支給される一時金
参考文献
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「平成30年度統計年報」 2019 横浜市健康福祉局生活福祉部生活支援課寿地区担当発行