【戦後75年】 今の私たちが編集部員だったら 太平洋戦争開戦を紙面化した


当時の『早稲田大學新聞』の紙面を検証

1941年12月10日、『早稲田大學新聞』は4つの記事と1つの論説(一般の新聞の「社説」に当たる)を一面に掲載し、太平洋戦争の幕開けを報じた⁽¹⁾。いや、報じたというよりも、大戦の意義を説いたと言うべきだろう 。 記事の見出しは「討英米の必然」「日米戦争と我等の決意」「太平洋戦争と世界維新」「世界大戦と大學の使命」といった具合だ⁽²⁾。それらの記事の本文には「日本がアメリカおよびイギリスを東亜において討つの時がいよいよ来た⁽³⁾」、「日本民族の歴史として恐らく空前絶後の偉大なる史誇を残すこととなるであらう⁽⁴⁾」といった言葉が並んでいる。

だが、当時の学生新聞はどのくらい事実を伝えていただろうか。ジャーナリズムの役割を果たしていたのだろうか。もし今の情報と観点を当時の人が持ち合わせていたら、どのような紙面を作っていたのだろうか。戦後75年経った今、私たちが編集部員として改めて太平洋戦争開戦を紙面化しようというのが本企画の趣旨だ。(取材・執筆=河津真行・田口理彩・鳥尾祐太・山田雄大、写真=山田雄大)

 

早稲田大學新聞、1941年12月10日
早稲田大學新聞、1941年12月10日

 

私たちの「早大戦時下新聞」はこのように作成した

1941年12月10日に発行された早稲田大學新聞には、真珠湾攻撃やマレー半島上陸作戦に関する詳細な記述はない。その代わりに戦意を高揚させるオピニオン記事が一面に並んでいる⁽⁵⁾。早稲田大學新聞の寄稿者紹介と私たちの調べによると、それらの記事の執筆者は杉森考次郎(早大教授・社会学者*¹)、池崎忠孝(別名:赤木 桁平・衆議院議員*²)、濱田久米夫(国際政治研究家*³)、川原篤(早大教授:国際政治・国際法*⁴)、桑原晋(経済学者*⁵)の5名と考えられる。池崎と桑原以外はいずれも早稲田大学と直接的な関係を持っている。

だが、オピニオンを前面に出す前に、まず事実関係を整理し提示することが不可欠だ。そこで私たちは一面トップ(一番扱いの大きな記事)に、現在分かっている史実をもとにしたストレート記事(オピニオン記事とは異なり事実関係を整理し、伝える記事)を執筆することにした。左肩には「論説:大学は戦争体制に抗せ」、紙面右下には「記者コラム:校歌に恥ずべき早大の戦争協力」、そして左下には「タイムスリップ戦争のその後」と題し、早稲田大学と太平洋戦争のその後を記した。下部の「日米開戦 歓迎の声多く」では坂口安吾、井伏鱒二らが当時書き記した文章をもとに開戦を歓迎する声を伝えた。

 

今回、私たちが制作した「早大戦時下新聞」の紙面
今回、私たちが制作した「早大戦時下新聞」の紙面

 

■一面トップ「日本 米英と開戦 戦況の見通し悪く 早大生動員の恐れ」

まずカット見出しを「日本 英米と開戦」とした。「我が国」といった言葉は使用せず、あくまで国家から独立した立場で事実関係を簡潔に示す狙いがある。また、主見出しを「戦況の見通し悪く 早大生動員の恐れ」とし、開戦と早大生の今後に関する懸念を表した。

本文では、真珠側湾攻撃による米国の死者・行方不明者が2403名であった一方、日本軍も124名の死者が出たことを記した。早稲田大學新聞にはこれらの数字がないため、比較できないが、1941年12月9日朝日新聞(東京朝刊)には「我が飛行機の損害は軽微なり」との記述があり⁽⁶⁾、これとの対比を意識した。

早稲田大学の学生新聞であることから、早大総長がどのような立場を取っていたかも明記した。田中穂積総長(当時)がラジオ放送で「我々国民は必ずや一億一心鉄石の覚悟を以て最後の勝利を収むるまでは一路邁進することを確信して疑わざる」と述べていた⁽⁷⁾。大学の独立が完全に失われていたことを象徴する一文だろう。

また新庄健吉陸軍大佐が作成した「新庄リポート」には当時既に、日米両国の間に大きな国力差があると記されていたことを伝え⁽⁸⁾、勝算のない戦争に日本が突き進もうとしていたことを明らかにした。

■論説「大学は戦争体制に抗せ」

早稲田大學新聞は戦争を推進する論調をとった。だが、これに対して早稲田大学教授の野中章弘(ジャーナリズム論)は「戦争に反対しないジャーナリズムはジャーナリズムだと認めない」と語る。

戦争は社会にとって最も望ましくない事態であり、ジャーナリズムが社会を少しでも良くするための営為である以上、戦争に反対する責務があるという。私たちもこのような問題意識に基づき、大学が戦争に抗うべきだとの主張を述べた。たとえ世論が一時的に戦争を求めていたとしてもジャーナリズムは、戦争に反対しなければならない。

野中章弘(のなか・あきひろ) 1953年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院/政治経済学術院教授。アジアプレス・インターナショナル代表。1980年代よりインドシナ難民、アフガン内戦、カンボジア紛争、東ティモール独立闘争などのアジアの紛争・戦争の取材を行う。現在は早稲田大学を拠点にジャーナリスト教育に注力している。
野中章弘(のなか・あきひろ)
1953年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院。アジアプレス・インターナショナル代表。1980年代よりインドシナ難民、アフガン内戦、カンボジア紛争、東ティモール独立闘争などのアジアの紛争・戦争の取材を行う。(=2020年11月19日山田雄大撮影)

 

■記者コラム「校歌に恥ずべき早大の戦争協力」

これは早稲田大学の校歌「都の西北」の一番の歌詞である。

都の西北 早稲田の森に
聳ゆる甍は われらが母校
われらが日ごろの 抱負を知るや
進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想
かがやくわれらが 行手を見よや
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ⁽⁹⁾

 

だが、実際には軍国主義に傾倒し、大学の独立性も失われていた。早稲田大學新聞も例外ではない。本来、「学の独立」が失われていくことに対して、「進取の精神」に基づき警鐘を鳴らすべきだったが、そうはしなかった。その校歌との矛盾を本コラムでは指摘した。

■タイムスリップ「戦争のその後」

「タイムスリップ戦争のその後」では早稲田大学と太平洋戦争のその後について記した。戦況が悪化していくなか、学徒出陣が行われ約4500名の早大生が出陣し、そのうち500名以上が命を落とした⁽¹⁰⁾。また教職員も徴兵の対象となっていた。12月10日の早稲田大學新聞に「世界大戦と大学の使命」を寄稿した川原篤(政治経済学部教授)も昭和二十年一月熱帯性マラリアのため漢口の病院で戦病死している⁽¹¹⁾。早大関係者で太平洋戦争中に戦没した人数は4736名にのぼる⁽¹²⁾。あまりにも多くの命が犠牲となってしまったことを伝える必要があると考え、執筆した。

■記事「日米開戦 歓迎の声多く」

開戦の知らせを受けて坂口安吾、井伏鱒二ら著名な作家ですら歓迎の声をあげていたことを記述することで⁽¹³⁾、当時いかに開戦論が根強いものだったのかを伝えようとした。その一方で、「えらいことになった。僕は悲惨な敗北を予感する」と漏らした近衛文麿呂前首相(開戦当時)をはじめとして、一部、開戦に懸念を示している人がいたものの、そうした声は黙殺されていった史実も書き記した⁽¹⁴⁾。

当時を冷静に見つめ直す機会に

今回の企画を行うにあたって初めて、当時の大学生新聞の紙面を見た。豊富な情報量に加え、書店などの広告も載っており、一般新聞さながらのクオリティに驚いた。その一方で、記事を読んでみると、帝国主義や戦争を礼賛する内容が目立った。戦時下の早稲田を覆う雰囲気が凝縮されていたと言える。その雰囲気に飲み込まれるまま、早大関係者だけでも4736名の命が戦場で失われていった⁽¹⁵⁾。

なぜ、早稲田は「学の独立」を失い軍国主義に傾倒していってしまったのか。なぜ、そうした動きを止めることはできなかったのか。当時の状況を学生として冷静に見つめ直し、今回の企画を態度を改める機会にしたい。
*なお本企画では琉球新報が2004年7月から2005年9月まで延べ14回にわたり掲載した特集紙面『沖縄戦新聞』を参考にした。

 

注釈

 

*¹杉森考次郎:1881-1968 大正-昭和時代の社会学者、政治学者。プラグマティズム哲学の田中王堂の影響をうける。倫理・社会・政治問題などを論評。大正8年早大教授,戦後駒沢大教授。静岡県出身。早大卒。著作に「行動政治哲学」「社会倫理学概説」など。
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E6%A3%AE%E5%AD%9D%E6%AC%A1%E9%83%8E-1083793

*²池崎忠孝(別名:赤木 桁平): 1981-1949。昭和時代の評論家、政治家。昭和元年「鈴木三重吉論」を、2年に「夏目漱石論」を発表して評論家として注目される。後に実業界、政界に転じ、米英排撃の国家主義的論著を発表。昭和5年刊行の「亡友芥川龍之介への告別」が最後の文芸評論となった。11年大阪3区より衆院議員に3選。第1次近衛内閣の文部参与官、大政翼賛会参与等を歴任した。
https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E6%9C%A8%20%E6%A1%81%E5%B9%B3-1636871

*³濱田久米夫:昭和7年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。大学院に入り世界政治政策研究。外務省嘱託、東洋経済新報社海外部次長を経て、同盟通信社情報部勤務(昭和18年時)。*濱田が昭和18年に出版した著書から、その経歴を引用した。しかし、他の4名とは異なり、私たちの調べた範囲ではオープンデータから、これ以上の情報を得ることができなかった。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456099

*⁴川原篤:昭和3年早稲田大学政治経済学部卒業。政治経済学部教授を務め、専門は国際政治と国際法。徴兵の対象となり、昭和二十年一月熱帯性マラリアのため漢口の病院で死去した(戦病死)。
https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0

*⁵桑原晋:経済学者。1903年生まれ1985年没。著書に『景気学説史(新評論1978年)』、『21世紀経済学(経済往来社1984年)』などがある。
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/38863.html

本記事の参考文献

 

⁽¹⁾早稲田大學新聞、1941年12月10日
⁽²⁾同上
⁽³⁾同上
⁽⁴⁾同上
⁽⁵⁾早稲田大學新聞、1941年12月10日
⁽⁶⁾朝日新聞(東京朝刊)、1941年12月9日
⁽⁷⁾早稲田大学、『早稲田大学百年史』、第七編第十一章 太平洋戦争下の学苑
https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E4%B8%83%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%80%E7%AB%A0
⁽⁸⁾読売新聞戦争責任検証委員会、『検証 戦争責任〈1〉』、81-82貢、2006年
⁽⁹⁾早稲田大学、早稲田大学校歌
https://www.waseda.jp/top/about/work/almamater
⁽¹⁰⁾⁾早稲田大学、『早稲田大学百年史』、第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興 レクイエム、第十七表 校友・在学生戦争犠牲者数
https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0

⁽¹¹⁾早稲田大学、『早稲田大学百年史』、第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興 レクイエム、一 教職員・校友・学生の犠牲者
https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0
⁽¹²⁾早稲田大学大学史資料センター、『ペンから剣へー学徒出陣70年ー』、2013年、19貢
https://www.waseda.jp/culture/archives/assets/uploads/2015/10/5a3d6157d70a2bd8a78545ab36373604.pdf
⁽¹³⁾方丈社編集部編、『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』、方丈社、2018年
⁽¹⁴⁾同上
⁽¹⁵⁾早稲田大学、『早稲田大学百年史』、第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興 レクイエム、一 教職員・校友・学生の犠牲者
https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0
*最終アクセス日はいずれも2021年1月27日

 

早大戦時下新聞の参考文献

 

・方丈社編集部編、『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』、方丈社、2018年
・読売新聞戦争責任検証委員会、『検証 戦争責任上下』、中央公論新社、2006年
・早稲田大学、『早稲田大学百年史』
https://chronicle100.waseda.jp/index.php

*最終アクセス日は2021年1月27日