ゼミ7期生  同期生によるインタビュー記事を掲載


2021年度冬のプレ演習でゼミ生(7期生)同士のインタビュー実習をおこない、記事を作成しました。コロナ下の2020年4月に入学した2年生です。それぞれに個性的なインタビュー記事を紹介します(本人の了解を得たものを掲載しています)。
1.地元の温かさ「ほっこり」を届けたい

エディソン静蘭さんは、大学進学を機に上京し姉と二人暮らしをしている。「地方に暮らす人の生き方を、記事を通して東京の人に知ってもらいたい」。そんな思いで静蘭さんは現在大学でジャーナリズムを学んでいる。

ジャーナリズムには高校時代から関心があり、それが早稲田大学政治経済学部進学の決め手となった。記者の仕事に興味を持ったきっかけは、日課で祖父母とニュースを見てその原稿を書きたいと思ったことだ。さらに調べるうちに偏向報道などの伝える側の問題を知った。情報をきちんと伝える人が必要だと思い、記者職への関心がより強まった。
静蘭さんは福島県会津若松市で育ち、お父さんはカナダ出身だ。地元には海外出身の人自体が少なく、コミュニティの狭さも相まって周囲の視線を気にする機会も多かった。苗字の珍しさから面識のない人にまで名前を知られていることもあったという。
このように地元のマイナス面に触れてきた彼女だが、次第に「地元のコミュニティの狭さは言い換えればつながりが強いということで、そこには面白い面もある」と思うようになった。地元では静蘭さんと同じような家庭環境の人と家族ぐるみでホームパーティーをする機会があり、繋がりの良さに触れる機会もあった。こうした経験が静蘭さんの心境の変化の一因であり、彼女は地元の悪い面だけでなく良い面にも目を向けるようになっていく。
「若者と高齢者の関わりなど、地方のほっこりニュースを伝える記事やコラムを書きたい。」上京して地元のようなつながりが東京に少ないと感じ、コロナ禍で孤独を感じる人が増える中でその思いが強まった。ネット記事や SNS のコメント欄の誹謗中傷を目にしても、書き込みをする人がどんな経緯や思いで書き込みをするのか考える。「ほっこり」で きるニュースを届けることで、誹謗中傷コメントをする人のストレスを緩和できたらいいと考えるそうだ。【取材・執筆=西田菜緒】

 

 

2.人生の途中からバスケで構成されている

青春をバスケットボールに注いできた落合俊(20)は早稲田スポーツ新聞会(通称 早スポ) に所属している。男子バスケットボール部を担当しつつ、全日本学生選手権の取材に足を運ぶなどと活動に励んでいる。
中学から早稲田大学高等学院に通い、すでに約 8 年間も臙脂色に染まっている。中学では周りの多くの友達がやっていたバスケットボールを始めた。初めての紅白戦ではシュートを決めることができ、次第にバスケットボールに打ち込むようになったという。高校 1 年の時にある出来事が起きる。練習中に右手を骨折したのだった。骨折を機にプレーすることからは遠のいてしまう。そのまま高校 2 年の春に急遽、部活動を辞めた。「バスケに近づくために離れた」のだ。
退部は、好いていた先輩の引退までと決めていたそうだ。後輩の目には涙があり、辞めないでと言われた。しかし、決心は固かった。「自分がやりたいことをやりたかった」と語った時の瞳はまっすぐ向いていた。退部と同時に大学では早スポに入ることを決心し、選手の写真を撮ることなどの追いかけることに完全シフトする。そして、ジャーナリストを志すようになったという。きっかけは、高校時代に追っかけのいなかったある高校のバスケットボール部を追ったことだった。他の強豪校には写真を撮ってあげるファンがついていた。しかし、その高校はひっそりとしていて、注目を十分に浴びずに埋もれてしまっていたのだ。「俺が追っかけてあげよう」と追っかけは始動する。なぜそこまで惹かれるのだろうか。彼は「学生バスケは積み上げてきているものがあって、1 試合 1 試合、懸けている感じが観ていて楽しい」と語った。
将来はジャーナリストを目指しているそうだ。早スポに所属していることもあり、新聞に
興味を持ちつつも、映像で伝えることにも興味を持っている。バスケットボールをプレーすることから始まり、伝えることにつながり、将来の仕事像に影響している。
中学の時に強い意志もなく始めたバスケは、彼の人生の道しるべとなっていた。【取材・執筆=長谷川理実】

 

 

3.「人のために、全力で」 菊池朋香さんとジャーナリズム

「全力で生きる、それが私のモットーなの」。そう語る菊池朋香さん(20)は現在、早稲田大学政治経済学部の 2 年生である。そして彼女の溢れんばかりの情熱は今後、ジャーナリズムへと向けられていく。今秋彼女は同大学、瀬川至朗ゼミの一員となったのだ。

菊池さんは 2020 年 4 月に早稲田大学政治経済学部に入学した。しかし彼女は国際政治学を学ぶ傍ら、同大学ア式蹴球部女子部のマネージャーも務めている。その練習は平日だと月曜以外 18 時半から 21 時までと毎日あるらしく、プロを目指す選手が多くいる部活動での苦労が垣間見えた。それでもなお活動を続ける理由を尋ねた時、「自分のためにというより、人のために行動したい」彼女はさらりとそう言ってのけた。

そんな人柄の彼女がジャーナリズムに興味を抱くようになったきっかけは、今夏参加したボランティアにある。それは JICA のベトナム人技能実習生支援をした時の事だ。彼女は8 月から 9 月までの1か月にわたり、技能実習生に日本語を教え、日常生活の手助け等をおこなった。
「先生と生徒というより、本当に友達という距離感だった」彼女はそこでの技能実習生との関係をそのように振り返る。しかし、友達のような距離感になったからこそ感じた違和感がそこにはあった。
彼女にとって日本人の友達となんら変わらない技能実習生たちは、彼女が聞いた事のないほど悲惨な環境で生活をしていたのである。その実情を知った彼女は、何よりもこの現状を知ってもらう必要性を感じた。そしてその方法を学ぶべく、ゼミではジャーナリズムを学ぶ決意を固めたという。

取材の後半、10 年後の目標を尋ねた時、彼女は「BIG な女になりたい」そう答えた。今後、菊池さんの性格とジャーナリズムが合わさった時、どのような化学反応が起きるのか。私も BIG な期待を彼女の将来に寄せざるを得ない。【取材・執筆=安井丈博】

 

 

4.社会問題を「自分ごと」に

「社会問題について実際にいろいろな人の話を聞いて活動することで、自分の頭の中だけで考えて完結しがちである弱点を克服したいと思っていた」そう話すのは早稲田大学政治経済学部 2 年の小池春都さんだ。彼は瀬川ゼミ 7 期生であり、特定非営利活動法人 国際協力NGO 風の会の代表を務めている。
このNPO 法人は「全ての子どもたちが未来への希望を持てる社会」を目標に東南アジアを中心に教育支援を行う学生団体である。現在 1 年生と 2 年生を合わせて 70 人ほどが所属しており、9 つのチームに分かれている。普段は、オンラインで現地の先生と打ち合わせをしたり、活動資金を集めるため国内企業に支援をお願いしたり、ホームページやSNS で活動内容を発信したりと幅広い活動を週2回行っている。新型コロナウイルスの影響でほとんどの活動をZoom 上で行っているが、ミーティングは和気あいあいとした雰囲気であり、実際に会うことができなくても仲良くなった。
現在は代表を務める小池さんも、昨年はコロナの影響で上京することができず、同期と顔を合わせたのは今年になってからだった。1 年生の間に同期に直接会うことができなかったため、上京後しばらくはメンバーからの誘いを断らず、アルバイトをする間を惜しんで彼らと顔を合わせて距離を縮めた。今ではすっかり同期や後輩と仲良くなり、アルバイト先のカレー屋に後輩が来ることもあると言う。「後輩になめられている代表です」と彼は笑って話す。
風の会の代替わりは毎年 11 月に行われるため、小池さんは来年 10 月で引退する。彼は
学生団体で過ごす最後の 1 年について、「コロナの影響で 2 年間現地に行くことができていないが、来年の春から夏にかけて現地で活動できればいい。また、ラオスに小学校を建てるプロジェクトを進めたい」と目標を語った。彼の情熱が未来への扉を開く追い風となり、子どもたちの背中を押す日はすぐそこまで来ている。【取材・執筆=住友千花】

 

 

5.これからも支える仕事を

「早稲田祭の活動を裏方から支えたい」と話す。住友千花さん(19)は、早稲田祭運営スタッフの一員として今年の早稲田祭も支えてきた。運営スタッフの中でも、早稲田祭と参加団体・参加者を繋げる局である参加対応局という部署にいる。
多くのスタッフがいるこのサークルでも一番人数が多いこの参加対応局。部署の名前通り、他の局よりもたくさんの団体の企画のサポートといった幅広い活動を行っている。活動は、参加団体の募集から抽選、出演が決定した団体の企画のサポート、早稲田祭開催後の事後アンケートなど多くの仕事をこなしている。早稲田祭が近づくと「朝起きて、運営スタッフの仕事をして授業、課題をこなしバイトに行き帰ってきて寝る」と実際にとても忙しく大学生らしい生活をしている。
大学入学前、元々早稲田大学を目標にしていて教育系の勉強をしたいと考えていたが、大学受験の勉強をするあたり自分の本当に勉強をしたい分野は社会学、政治学であると興味をもったために政治経済学部を目指していた。「無事合格したら、学園祭やイベントの運営側をやってみたい」。入学前からバンドやアーティストのライブに行くのが好きだった。それをきっかけに持っていた「運営スタッフのような活動を大学生活ではしてみたかった」という思いがサークル入会の決め手となった。
大学生活を過ごしている中で報道系の職に興味を持ったので大学卒業後は、報道系に進みたい。そしてこのジャーナリズム演習の中では、マスコミの影響力やフェイクニュースの影響をどのくらい減らせるかなど、現代ジャーナリズムの研究を進めたいと考えてい る。報道系の中でも、「テレビ局だったら番組を製作する側をやってみたい」。サークル活動では、1年間かけて早稲田祭に向けての細かいスケジュール管理や、出演団体のサポート、担当者会議を活動行っている。その活動が卒業後なりたい姿である制作系の仕事に活かせるのではないか。
今月 11 月誕生日の自分にノートパソコンのワイヤレスマウスを買ったという。そのマ
ウスで「作業効率を上げて、三年目の早稲田祭 2022 も運営スタッフに残り活動を進めていこう」と語った。【取材・執筆=西 悠作】

 

 

6.デザインへの情熱と広がる可能性

「人とコミュニケーションをとることが好きなんだよね」。西悠作は少し照れながらもそう語った。2 歳上の姉とは喧嘩をすることがなく、仲のいい友達のような関係だと言う。そのようなエピソードからも彼の気さくな人柄がうかがえる。
西は新宿で生まれ、2,3 歳の頃からは東村山で暮らしている。幼少期から絵を描くことが好きで、よく落書きをしていた。個性を尊重し、どこに落書きをしても怒らないという両親の方針の下で、デザインへの興味が高まっていった。
高校生になった西は当初、得意なデザインを活かすために建築学科を志望していた。趣味の旅行や一年生の春に経験したフランス、パリでの語学留学、塾とファストフード店でのアルバイトなど多忙な日々を送りながらもデザインへの情熱は冷めなかった。課題をすることは好きではなかったが、製作系の課題だけは時間を忘れて取り組んでいた。そんな西は三年生になり文系に転向するという大きな決断をした。建築学科に進めば、資格を取って建築家として生きるという既定のレールに乗ることになる。それで本当にいいのだろうかと悩み、自分の可能性、視野を広げるための決断だった。「色々やってみて、やりたいことが見つからなかったら、デザインや建築を学ぶためにまた大学へ入り直す覚悟はあったよ」。西は当時のことを思い出し、そのように語る。
早稲田大学の政治経済学部に入学してからは、もともと理系であることを活かして、上級
生が受講している高度な経済学の授業を履修するなど、自らの可能性を広げる努力を惜しまない。また、高校生の頃から続けているものも含めてアルバイトを 3 つ掛け持ちしている。そのうちの一つであるマクドナルドでは、他のスタッフの役割分担を指揮するシフトマネージャーという役職を任されている。「責任が大きくて大変だけど、貴重な経験が出来ているし、その分やりがいは感じるよ」と西は語る。
西は将来的なジャーナリズムの重要性や、デザインとの関わりを考えて瀬川教授のゼミに加入した。幼少期から持ち続けたデザインへの興味と、大学で広がった可能性や視野がどう融合し、何が生まれるのか。控えめに、しかしまっすぐな目で語る西の将来に大きな可能性を感じた。【取材・執筆=小池春都】

 

 

7.知らない世界に目を向ける

政治学科に所属する西田菜緒(19)さんは、今年の 8 月から学生団体 NO YOUTH NO JAPAN の一員として活動を始めた。まだ加入して日が浅いにも関わらず、衆院選の取材や若者の投票率増加のための呼びかけなど、活動は多岐にわたっている。「興味のある分野だけでなく、常に視野を広く持っていたい」と口にする西田さんからは、その現状に甘んじることのない様子が伺える。
大学1年生のときに、『潜入ルポ 中国の女』というルポルタージュを読んで衝撃を受けた。中国のさまざまな階級にある女性たちの実態を知り、女性の貧困について一層の問題意識を持つようになったという。「これまでも情報としては持っていたけれど、自分の知っている世界の狭さを実感した」と西田さんは当時のことを振り返る。
自分の興味のある社会問題や周りの環境にだけ関心を向けていては、知らず知らずのうちに視野が狭まってしまう。西田さんの持つそんな問題意識は、所属している学生団体にも向けられている。NO YOUTH NO JAPAN は主に都内で活動する組織であり、そのメンバーには都内在住者や比較的経済力の豊かな人が多い。「NO YOUTH NO JAPAN では、地方格差や貧困問題に接する機会が少なくなってしまっている」と話し、知見が偏ることへの危機感をのぞかせる。これまで自分に関わりがなかった分野にも積極的に関わっていきたいという。
「編集された情報ではない一次情報を、直接聞いてみたい」。かつてルポに衝撃を受けた西田さんは、今度は自分が記者として当事者たちの声を直接聞いてみたいと話す。最近、大学の講義でデータジャーナリズムについて学ぶ機会があった。それがきっかけで、自身でデータを収集しアジェンダを立てるデータジャーナリズムの手法に魅力を感じたという。「既存の対立軸だけで物事を考えるのではなく、自分でデータを見て、新たな問題点を発見できるような記者になりたい」。西田さんは真剣な表情で話した。【取材・執筆=山田祐太】

 

 

8.演劇にかけた8年間

「人と関わりたかった。表現することや人に伝えることが好き」。西村玲さん(19)は早稲田大学の2年生で、今年度瀬川ゼミの 7 期生となった。Seiren Musical Project というミュージカルサークルで幹事長を務めており、舞台に立つことをはじめ、表現することには特別な思いがある。
大学1年生の時に演出助手として、初めて上級生のパフォーマンスを目にした。プロでやっている人もいるようなレベルの高い演技に圧倒された。しかし、コロナの影響でその公演は中止。学生のつくる舞台が消えてしまったことで、守りたいと強く思うようになった。「自分が稽古場で見ていた、あのパフォーマンスをお客さんに届けられないという事実が辛かった。そこからお客さんに届けるために何か自分にできることはないかと思い、幹事長になりました」
小学生の頃からクラシックバレエを習っていて、もともとパフォーマンスすることが好きだった。演劇は、中高で芝居や歌をやってみたくて始めた。そして続けていくうちに、のめり込んでいった。しかし、正解のない役を演じることは簡単なことではない。どうして舞台をしているのかと悩んだ時期もあった。そのような時に原動力となったのは観客からの反応だ。「舞台に立ってパフォーマンスをして、お客さんから反応をもらえると、それまでの苦労がなくなる」。そして、いつしか演劇を本気でやりたいと思うようになり、Seiren Musical Project を選んだ。今では幹事長として、学生の舞台を支えている。
ここまで8年間、西村さんは演劇に力を注いできた。プロになりたいと思っていた時期もあったという。しかし大学の授業を受ける中で、「今から舞台だけに絞っていたらもったいない」と感じるようになった。
「視野を広げておいて、それでもやっぱり舞台は好きだから、舞台と新たな分野を掛け合わせられたらいいな」。演劇と関わりながら、未来の姿を模索している最中だ。
西村さんが目指す将来の人物像は自分自身に忠実な人だ。実際に演劇という道のりを歩む中で、好きなことを見つけてきた。これからも自分の道を信じて、進んでいく。【取材・執筆=落合俊】

 

 

9.貪欲に高みを

「大学では自分で結果を出したいと思って」。長谷川理実さん(20)ははにかみながら語った。早稲田大学政治経済学部国際政治学科の 2 年生である彼女の日々は、ボートを中心に回る。
週 6 日、埼玉の戸田漕艇場でトレーニングに励む。朝練後授業を受け、夕方トレーニングに戻る。ボートに集中する覚悟を決め、4 月から戸田で一人暮らしを始めた。練習のモチベーションは何かと聞くと、「楽しいっていうよりも、目標を達成したいから練習するって感じかな」。「一度決めたら意志は固くて、拘りは捨てられない」。淡々と語る長谷川さんの表情からは、ボートへの真摯な姿勢が伺える。
漕艇部に入部するまで、ボートを漕いだ経験はなかった。父の転勤で小学 4 年生から 6 年生までオーストラリアにいたことが人生のベースとなる。帰国後は、オーストラリアで習得した英語を武器に、早稲田大学系属早稲田実業学校に合格する。高校でテニス部に所属し、主務としてチームをインターハイ優勝に導いた。周りの人の喜ぶ姿からやりがいも感じた。その一方で、当時は「選手ではない」ことに引け目を感じていた。「大学では自分で結果を出したい。そのために新しいことにチャレンジする」。そして高 3 の時、親に連れられて行った早慶レガッタでボートに惚れ込んだ。オーストラリアでボートを漕ぐ人々を目にしており、昔から興味はあったが実践できずにいた。「かっこいいなと思ってて。ボートも、実はオーストラリアで種が植わってました」。競技への情熱の一方、学業でも高みを目指したかった。政治経済学部への進学に成功し、漕艇部に漕手として入部する。「日本一を目指せる」。謳い文句が心に響いた。
現在選手として活躍する長谷川さんだが、彼女は裏方の葛藤をも知っている。「マネージャーや運営は縁の下の力持ちではなくて、軸」。漕艇部の監督が放った言葉が印象的だった。選手の下の土台ではなく、中心の軸。高校時代は、自分の実力が劣っている、だから土台として支えているという意識が強かった。捉え方が変わった瞬間だった。「サポートを経験したから、支えてくれている人への感謝を忘れてはいけないと分かる」。
「将来はオリンピックの報道に立ち会いたい」。長谷川さんは明るく語る。スポーツジャーナリズム論の授業で、スポーツ報道を学んだことがきっかけだった。さらに今年のオリンピックに自身が感動をもらったことが後押しとなり、自分も感動を伝える人になりたいと感じた。学業だけでなく競技も、サポートだけでなく選手も、と貪欲に高みを目指す姿勢が、新たな道を切り開いている。【取材・執筆=西村玲】

 

 

10.「気になること」の探求

「結婚ってなんだ?」 そう、素朴な疑問を口にしたのは、政治経済学部 2 年の宮脇千弥さん(19)だ。政治学科に在籍しながら、「実は政治にはそこまで興味がない。むしろ経済の勉強の方が楽しい」と話すように、さまざまなことに興味を持つ。
趣味人としての一面もあり、ハマったことにはかなり熱中してしまう。実際、11 月中旬には大阪まで野球観戦に行く予定もあった(試合自体がなくなったため実現せず。贔屓球団の敗戦を残念そうに振り返った)。野球以外では漫画やお笑いが好きだが、それ以外のものにも、気になったらすぐに手を出してみるタイプだ。高校時代の一番の思い出としては、「軽音部に入り、ベースを始めたこと」と、新しいことへの挑戦を挙げている。
このように好奇心旺盛な彼女は、身近な事柄への興味も絶えない。最近気になっているものは、「結婚」だ。
興味を持ったきっかけは、一冊の本だった。結婚にまつわる女性の 10 年間を描いた小説
『私という運命について』(白石一文)。それをきっかけにして、結婚に関する疑問が次々に湧いて出てくる。
たとえば――
――故・瀬戸内寂聴さんが言った、「愛することは許すこと」というのはつまりどういうこと?
――感情でパートナーを選ぶのは「ヒト」だけだと言われるが、それって生物としてどうなんだ?
――そもそも、これほどまでに曖昧なものを、法律で縛っているというのはいかがなものか?
調べるほどに疑問は連鎖し、知りたいことは山積みになった。
そういうわけで、卒業制作のテーマには「結婚」を選択した。自分が今一番興味を持っていることを探求していきたいのだという。「(結婚というシステムの中で)自分にとってわけが分からないな、気になるなということについて毎日いろいろと考えています」。曖昧で、漠然としていて、それでいて誰にでも関係がある。そのややこしさ、難しさに魅力を感じた。
最終的には、結婚をある程度パターン化できればと考えている。はっきりとした実体を持たない「結婚」に、かたちを与えることを目指す。【取材・執筆=吉村穂乃香】

 

 

11.偽善ではないジャーナリストを目指して

本橋瑞紀さんは知的好奇心が高く、色々なジャンルに目を向ける。しかしジャーナリストという夢にはまっすぐ突き進む 19 歳だ。「学生団体 GEIL」という政策立案サークルに所属し精力的に活動している。現代の社会問題に直に触れ、実際に困っている人びとに関われることは、目指す職業に役立てられると考え、このサークルに加入した。夢の実現のためにできることをその都度分析し、着実に夢へと近づいている。

中学二年生の時にはもうすでに希望進路を固めていた。契機となったのは、ラジオの戦後 70 周年番組だった。子供を広島の中心地に送り出した朝、原爆が落ちて子を失った
母親が、戦後 20 年をどう生きたかに迫るものだ。母親は 20 年間自分を責め続けたが、その月日の長さに愕然とし、心を強く動かされた。「人がここまで追い詰められ、自責の念に苛まれるとは。戦争ってなんなのか」。戦争の恐ろしさを知る、伝えるため、ジャーナリストになる夢ができた瞬間だった。

サークルに加入してからの成長も感じている。都内に限られていた小中高校とは異なる大学という開かれた環境に身を置いたことで世間と自身との相対化ができた。口先だけでなく自分は恵まれていることをまざまざと実感した。自分のような人間が社会的弱者を取り上げて報じる。生半可な気持ちでは出来ないと苦悩した。

しかし、ここで「分かり合えない」とは終わらせないのが本橋さんだ。取材対象に対峙することは容易いことではない。それを理解したうえで、なおも同情や偽善ではない関係性を築いていこうとする。冷静に自身の性格を分析し、理性と感性の乖離が自身のパーソナリティの弱さだと自覚しているからこそ、その弱さを切り口にして社会的弱者との新たなコミュニケーションの仕方が作れないかと模索する。

この道を志すきっかけは戦争問題だったが、現在はサークルでの活動にも影響され人権問題やジェンダーギャップの問題にも関心を向ける。長年の努力が実を結び、持ち続けてきた夢が形になる日が待ち遠しい。【取材・執筆=宮崎千弥】

 

 

12.舞台はアメリカ、挑戦が始まる

「知らないことを知るのが好き」。そんな思いを抱き、安井丈博さんはジャーナリズムの扉を叩いた。瀬川ゼミに入り、「インタビューをしてみたかった」と目を細める。しかし、2ヶ月後には留学のため自身3度目となるアメリカへと飛び立ってしまう。

物心つく頃にはすでにアメリカでの生活がスタートしていた。ニューヨークで働く父に連れられ、3歳から7歳までの幼少期を母国から離れて暮らす。これが人生初の海外生活であった。「楽しい思い出しかない」。この頃を思い出すと、自然と笑みがこぼれてくる。幼い頃から英語に触れ、異国の文化環境で育った背景から、日本に帰国した頃はいわゆる日本の
「ノリ」になかなか慣れることができず、苦労した。しかし、小中学校を日本で過ごすうちに、徐々に日本での生活に慣れていく。そして高校進学後、学校のプログラムでアメリカへの短期留学があることを知る。アメリカの大学への好奇心から、留学を申し込み、今度は自分の意思で渡米。留学先の大学では新たな発見の連続だった。アメリカの学生は意見を出してない人の意見を待つという考え方や文化がなく、自分から積極的に発言しなければ、議論に参加することができない。頭の中を整理して、いざ言語化しようとするが時間がかかってしまう。現地の学生のスラスラと出てくる英語のスピードに負け、意見を述べるタイミングを逃していたという。英語力の不十分さを身をもって実感し、帰国した安井さん。英語を必死で勉強した。「国籍や宗教が違う人と議論するのは、日本人同士で議論するよりも、驚くべき意見が出て面白い」。早稲田大学に入学して2年目を迎えた今、安井さんは3度目のアメリカへと飛び立とうとしている。

「いろんな面で大人になりたい」。3度目の渡米では、一人暮らしにチャレンジ。これまでのバイトで貯めたお金を生活費として使い、自分の力で生きていく大変さを身をもって学ぶ。新たな挑戦への意欲はこれに尽きない。留学先の大学付近は、学生街だ。ジャーナリズムを学ぶ環境としての評判も高いため、ローカル新聞をインターン先として選び、新しいことを知ってみたいという。好奇心を原動力として、次々に新たな挑戦を続ける安井さんの人生の冒険はまだまだ続いていく。【取材・執筆=山田彩愛】

 

 

13.「支える」立場から「伝える」立場へ

「自分が取材をした選手が活躍する姿を見ると本当に嬉しい」と山田彩愛さん(20)は笑顔で語る。ラグビー蹴球部、バドミントン部を始めとした早稲田大学体育各部の動向を発信する「早稲田スポーツ新聞会(以下、早スポ)」の記者の一人だ。スポーツが好きだからこそ、一人のファンとして選手を熱く応援しながら、一人の記者として時には選手の喜びを、時には悔しさを読者に共有することが彼女の使命である。

高校時代は、ラグビー部のマネージャーとして選手の活躍を『支える』場でスポーツに携わってきた。大学入学後も、「スポーツに携わりたい」と感じ、体育各部の学生スタッフに興味を抱くも、新型コロナウイルスの影響で見学の機会がなく、入部の決め手を見つけることができなかった。そんな時に高校の部活の先輩から早スポの入会を勧められた。ただただスポーツが大好きで、かつ、以前から早稲田のスポーツが好きだった彼女にとって「ずっと応援していたバドミントン部や大好きな大学ラグビーを近くで取材できる」ことは入会の大きな決め手となった。

選手の活躍を『支える』立場から『伝える』立場へ。立場の変化で新たな難しさに直面した。「どこまで踏み込むべきか悩む」。部の一員としてではなく、部を取材する第三者という立場になったからこそ、選手との距離の取り方に難しさを抱くようになった。一方で「伝える」立場になったからこそ、ツイッターに掲載される自分の記事を「多くの人に読んでもらえることが嬉しい」という新たな喜びに出会うことができた。

「選手に心を開いてもらわないと喋ってもらえない、まずは信頼される記者にならない と」。代変わりによって、男子バレーボール部の取材チーフという新たな立場に挑戦する。信頼される記者になるためにも、まずは取材の回数を重ね、顔を覚えてもらう。そして選手に心を開いてもらうためにまずは自分自身も心を開いて、選手が話しやすい環境を作る。選手との対談の際に競技の話だけでなく、趣味などオフの面の話を聞くのも選手が少しでも 心を開いて話せるようにする工夫である。
「選手に信頼される記者になる」。これから新たな挑戦が始まる。【取材・執筆=菊池朋香】

 

 

14.今は、速記がしたい

「速記は絶対将来取って代わっちゃうものじゃないですか」。速記の先行きを案じるのは邦文速記研究会に属する山田祐太さん(20)。速記は将来に生かすというよりも、ただただ純粋に楽しむ趣味であると言う。
発言を書き記すことが前提の速記には、およそ 130 年という長い歴史がある。しかし、衆議院と参議院の速記者育成所が廃止され、本会議などを除くほとんどの議事録が自動化して既に 10 年以上が経つ。「今はレコードの時代だ」と明るく笑う山田さんの目は、どこか悲しさを含んでいる。
将来性がないものが好きなのは昔からだという。現在も他に、自らの将来とは関連のない妖怪や鳥獣戯画といった日本文化に興味を持っていた。その中でも、速記は自らが実践することで、失われそうなものを継承したいという考えを持っている。「ジャーナリズムの道に進む人ならば、速記は知ってほしいなぁ」と切実に話す。
大学に入学し上京する前は、北海道の帯広や札幌で過ごした山田さん。北海道は食べ物やデザートが美味しいと嬉しそうに話す。しかしその反面、小学校までの通学に約 50 分もかかったことや、高校時代に東京付近の大学の情報が少なかったことを思い出す。このように以前は、不便で足りないものばかりと感じていたという。そんな時代を過ごしたからか、「自分はなんでも楽しめる性格だ」と豪語する。明確にやりたいことは決まっていなかった。それでもレベルが高いところを目指した結果早稲田大学に進学した。そこで暗号のような速記の魅力に惹かれ、邦文速記研究会での活動を始めるようになった。「そのときそのとき自分がやりたい事をする」と話すように、これが山田さんのポリシーであることは間違いない。
速記を将来に生かすつもりはなく、別の道を考えている。しかし、今の山田さんは速記が
好きで速記がしたいのである。将来は様々な資格を取り、それを生かした仕事につきたいと考えている。現在は会計士の資格を取る勉強中だ。その資格も、将来自分が何をやりたくなるか分からないため、備えとして勉強しているという。
会計士の資格が取れれば最終的な目標は会計士となるが、短期的な目標は気にしない。速記などその都度好きなことをして過ごし、今を生きる。しかし、最終的な目標のためにも勉強を積み重ねることは忘れない。ここに、山田さんらしさが詰まっている。次に山田さんが夢中になるのは何だろうか。【取材・執筆=エディソン静蘭】

 

インタビュー記事は2021年度プレ演習(瀬川ゼミ)で制作しました。