福島県富岡町に「帰ってきた」 富岡第一・第二小中学校富岡校の現状


2018年4月6日、約500人の住民に見守られながら、福島県双葉郡富岡町立富岡第一・第二小中学校の入学式、そして富岡校の開校セレモニーが行われた。2011年3月に発生した東日本大震災。東京電力第一原子力発電所の立地自治体の隣町である富岡町は原発事故当時、全町避難となり、小中学校ともに田村郡三春へ避難していた。2017年4月の避難指示の解除を受け、三春校と併存する形で富岡校が再開したのだ。「帰ってきた」小中学校はどのような様子なのか。私たち(川野耀佑・清水未来、木村京)は震災の「月命日」にあたる2018年9月11日、再開からおよそ半年後の富岡校を訪問した。(取材・執筆・写真=川野耀佑)<トップの写真は富岡第一小学校校長岩崎秀一先生と児童たち>

7年ぶりに戻ってきた小中学校

「ミッキーだ!」「先生、それつけてるんだ!」

1時間目の授業が終わると、教室から児童たちが飛び出し、富岡第一小の岩崎秀一校長に駆け寄ってきた。4年生の南月(るな)さんが、岩崎校長が名札の裏に着けたミッキーのシールを見つけた。聞けば先日、小中合同の修学旅行でディズニーランドに行った際のものだと言う。児童たちは大喜びだ。

校長のそばを離れると、2年生の安齊月望空(るきあ)くんと1年生の三國優くんがじゃれあっている。「俺強いんだよ!おんぶしてあげる!」。三國優くんは取材陣の女子学生を見事に持ち上げた。そこに中学生たちが通りがかった。走り寄って話しかけに行く。富岡第一・第二小中学校の児童・生徒数は22人(訪問時点)。生徒数は少ない。しかし、生徒の様子からは寂しさは感じられない。

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共に取材した清水未来さんを背負う三國優くん

 

学年を越えて、校舎を越えて

人数が少ない中で富岡校のにぎやかさを生み出すのは、学校内でのつながりの深さと、学校外とのつながりの広さだ。

富岡校は少人数だからこそ、学年を越えた交流が多い。授業は2学年合同の「複式」で行い、小学校・中学校それぞれ全体で行う授業もある。体育も小中合同で行い、給食は小中の教員もともに食べる。さらに給食の際には同じ学年で固まらないように、毎回席を入れ替える。「生徒が2人や3人で体育や給食をしても盛り上がらない。ならばみんなでやろうということです。」

また、三春校と富岡校の合同イベントも多い。2018年4月の入学式は富岡校で、体育祭は三春校で、それぞれ合同で開催した。式には父兄だけでなく、地元の老人会や地元の企業が仕事を休んで参加した。その他多くの合同でのイベントを行う。そして、富岡校開校以来続けているのが両校をビデオ通話で結ぶライブ授業だ。合同による「朝の会」から始まり、最近では算数など通常の授業にも、ライブ授業を取り入れている。直接会う機会は少ない。しかし日常的に顔を合わせることで、三春校とのつながりが途切れない。富岡第一・第二小学校に震災以前から勤務している岩崎校長は「絶対に、どうしても、三春校も富岡校も同じ富岡の仲間だ、という気持ちを持たせたかった」と言葉に力をこめる。

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ライブ授業を受ける児童たち

地域コミュニティの場として

さらに、富岡校は地域とのつながりも大切にする。1階を「交流スペース」として地域住民が集まれるようにし、授業に地域の老人クラブを招待することもある。さらに7月から高齢者向けのカルチャースクールを開校した。岩崎校長によると、これは再開時から意識していたことだと言う。「せっかく再開するのだから、コミュニティの場になろうと。特に、帰還者の多くが高齢者なので、高齢者が外出し、地域とつながりを持つきっかけになればいいと思っている」。この試みは、町内の高齢者だけでなく、元住民が訪れるきっかけともなった。現在は隣町の楢葉町に住んでいるという元住民の関根久美子さんは、高齢者同士の集まりで富岡校でのカルチャースクールについて知り、富岡町を再び訪れるようになった。「子供の声がするというのはいいもの」と富岡校再開の意義を感じている。

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クラフトバッグを作るカルチャースクールの様子。中央が関根さん

 

開校までの7年

富岡第一・第二小中のここまでの道のりは厳しいものだった。

東北地方太平洋沖地震が起きた2011年3月11日、岩崎校長は富岡第二小学校の教頭を務めていた。津波は校舎内にまでは至らなかったものの、第一中敷地内のテニスコートまで飲み込んだ。翌12日午前5時32分、福島第一原発から半径10㎞圏内に避難指示命令が出る。富岡町はその全域が対象だった。

「詳細は不明、とにかく西へ逃げろという緊急避難の指示が出た。最終的に郡山市のホール、ビッグパレットふくしまが富岡町の避難所となった。午後に福島第一原発の水素爆発が起き、児童やその家族は全国、あるいは海外まで避難した家族もいた。安否確認が完了したのは6月だった」(岩崎校長=現在)。

郡山市に隣接する三春町にあり、閉鎖予定だった曙ブレーキ工場の跡地で2011年9月1日から富岡幼稚園・富岡第一・第二小中学校三春校を開校した。幼・小・中あわせて82人での再スタートだった。三春校での勤務が5年半となった2017年4月、富岡町の北東部を除く85%の区域の避難指示が解除された。富岡校再開が決定したのは2018年になってから。「町長と、たとえ一人でも富岡で学びたいと言う子がいるなら再開すべきだ、と話した」。それから意向調査や、保護者向けの説明会を経て、2018年4月の開校にたどり着いた。

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今も校舎には線量計が残る

震災の経験を活かす

長期にわたる避難を余儀なくされ、今も原発で働く保護者も多い学校だからこそ、単なる防災教育にとどまらず、東日本大震災に関する知識を深める授業を行う。「富岡校について学ぶ上では、絶対になぜ避難していたのかというところに行き着く。あの日どれだけの津波が来たか、なぜ私たちの学校や町は避難しなければならなかったのか、放射能とは何か、ということについて正しい知識を教えなければならない」(岩崎校長)

また、避難訓練にも東日本大震災の経験が活かされている。「警報から30分で逃げないと間に合わない」という経験から、2キロほど離れた高台にある施設「富岡町文化交流センター 学びの森」まで20分で駆け上がることを目標とした。上級生が下級生の手を引き、預かり保育の子供を教員が乳母車にのせ駆け上がった。時間は18分。「これならいいだろう」と胸を張る。

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富岡第一小学校校長の岩崎秀一先生

子供たちを、みんなで支える

2021年に予定される三春校廃校にむけての準備も進めなければならない。地域には子供が少なく、そのような多くの課題を抱えながらも、教員一人一人の創意工夫や、互見授業による切磋琢磨、さらに多くの人々の支援が富岡校を支える。私たちが富岡校を訪問した日には地元企業で構成されるボランティア団体が花壇の草取りを手伝いに訪れ、翌日には広い校舎の清掃を助けるため、アイロボット社の掃除機「ルンバ」が寄贈された

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花壇の草取りの様子

「うちはまだ普通の学校ではない」と岩崎校長は語る。課題は多い。富岡校に勤務する職員は9人。1人で2学年を担当し、ライブ授業などの慣れない形式の授業を行う。他にも、現在岩崎校長自身が震災前の富岡町について学ぶ授業を行っているが、富岡町出身の教員は富岡校では岩崎校長のみだ。その岩崎校長も1年半後に退職をする。その後に、どのように過去を受け継いでいくかが、富岡第一・第二小中にとって重要な課題だ。

 

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