日本のドラァグ文化を取り巻く現状と展望 ~日本独自のクイーン像~


はじめに

ドラァグ文化とはゲイ文化の一つである。多くの場合、ドラァグクイーン[1]と呼ばれるゴージャスな衣装と派手なメイクに身を包んで女装をした男性がステージでパフォーマンスをする。日本においてはミュージカル「RENT」や「キンキー・ブーツ」、そしてNetflixで配信中の「ル・ポールのドラァグ・レース」などの影響によって近年ますます認知度が高まっている。しかしまだまだドラァグクイーンという言葉に馴染みのない人が多いのではないだろうか。

私がドラァグクイーンに興味を持ったきっかけは、2019年4月に観劇したミュージカル「キンキー・ブーツ」である。三浦春馬さん演じるドラァグクイーンのローラに出会った。ローラの、男性よりもたくましく女性よりもセクシーで妖艶な姿に非常に感銘を受けた。性別を超越した美しさを持つドラァグクイーンに魅せられたのだ。

このような出会いをきっかけとして、卒業作品で日本のドラァグ文化に焦点を当てたいと考えるようになった。しかし、日本でドラァグクイーンのステージパフォーマンスを生で観ることのできる機会は少ない。そこで本ルポでは、私を含めた多くの人が馴染みがないであろう日本のドラァグ文化、ドラァグクイーン像がどのようなものなのかを取材して明らかにすることを試みた。(取材・文・写真=市川尚德)

 

1 ドラァグクイーンとは?

読者の中には、ドラァグクイーンという言葉は聞いたことがあるものの、その中身はよくわからないという方が多いと思う。一体ドラァグクイーンとはなんなのだろうか?調べてみたもののドラァグクイーンについての明確な定義というものは見つからなかったため、ここでは魚住(2018)による表現を借りる。

「『ドラァグ』とは、一般に、ゲイないしトランスジェンダーの男が女装し、派手な衣装や厚化粧、大袈裟な仕草で、『女であること』をパロディ化したパフォーマンスを行なうことを指し、それを行なうパフォーマーを『ドラァグ・クイーン』と呼ぶ」(魚住, 2018, p.4) [2]

このように、一般的には女装してパフォーマンスをするゲイのパフォーマーをドラァグクイーンと呼ぶ。しかし中には異性愛者や女性のパフォーマーも存在しているため、やはり明確な定義というものは存在しない。クラブなどで行われるドラァグクイーンのパフォーマンスは「ドラァグショー」と呼ばれ、ドラァグショーの中では「リップシンク」というパフォーマンスが行われることが多い。リップシンクとは口パクでディーヴァ(歌姫)のモノマネをするパフォーマンスであり、お笑い芸人のはるな愛や渡辺直美などの口パクネタに近いものである。

ちなみに、ドラァグクイーンという言葉の由来は不明である。「エリザベス朝様式のスラングで売春婦を表すqueanに由来するという説や、20世紀に行われていた贅沢なドラァグボール(ドラァグショーの前身)の結果として女装に対してドラァグという言葉が使われるようになった」(Zervigon, 2002, p.1 訳は引用者による)[3] という説があるものの、定かではないようだ。

 

ドラァグクイーンの起源

ではこのようなドラァグ文化及びドラァグクイーンはいつどこで生まれ、どのように発展してきたのだろうか?

ドラァグ文化の誕生について調べていくと、ドラァグ文化の起源ともいえる女装の文化は遥か昔からあったことがわかった。Zervigon(2002)によると、

「古代ローマ文学では多くの男性のクロスドレッサー(生まれ持った体の性別と異なる装いをすること)がフィーチャーされており、また多くのネイティブアメリカンの文化では、バーダッシュ(女装して女性として生きる男性)の人々が男性的な視点と女性的な視点の両方から世界を垣間見ることができる預言者や予言者として尊敬されていた。」(Zervigon, 2002, p.1 訳は引用者による)

このように、古代ローマの時代にはすでに女装の文化は存在していたようだ。そしてさらにいくつかの文献を調べていくと、このような女装の文化がLGBTQ+の人々によるドラァグ文化として確立したのは19世紀後半のアメリカ合衆国という説が浮上してきた。

1989年から1991年にかけて世間の意識に浸透したドラァグと女装の文化は、19世紀後半にまで遡ることができ、1869年にはハーレムのハミルトン・ロッジで最初のクィア仮面舞踏会が開催された」(Lawrence, 2013, p.3 訳は引用者による) [4]

「合州国においては、こうしたドラァグは一九世紀末、異性愛者のための仮面舞踏会などのなかで登場し、それが第二次大戦後、ストレート向けのクラブの舞台で演じられるショー・ビジネスともなり、さらに一九八〇年代になると、舞台/フロアーの垣根が取り払われ、観客もまた踊りに加わるような、ゲイやトランスジェンダーたちの交歓の場となるというかたちに進化していった」(魚住, 2018, p.4)

つまりLawrence(2013)や魚住(2018)によると、19世紀後半にアメリカで確立されたドラァグ文化は20世後半にはLGBTQ+の代表的な文化として世間に浸透していたそうだ。

 

日本のドラァグ文化の始まり

本作品を制作するにあたり、日本のドラァグ文化の歴史についての文献を探してみたものの、出てくるのは個人ブログなどばかりで、正式な文献として残っているものは見つけることができなかった。かろうじて見つけることができたのは魚住(2018)

「ドラァグ・ボールの日本への移入は、一九八九年、ミス・グローリアスことダムタイプの古橋悌二が、シモーヌ深雪やDJ LALAとともに大阪のクラブ、ジュネシスとパラノイアで “DIAMOND NIGHT”を始めたのをもって嚆矢とする。古橋は、一九九五年、HIV 感染、免疫不全による 敗血症のため三五歳で死去したが、ドラァグ・ボールは現在も“DIAMONDS ARE FOREVER”と名を変 えて京都の“CLUB METRO”などで継続して行われている」(魚住, 2018, p.4)

という記述のみであった。

日本のドラァグ文化をテーマに掲げながらも、文献やデータが思うように集まらない状況に私は焦りを覚えていた。そんな中、私が所属するミュージカルサークルを通じてのご縁があり、日本のドラァグ界の重鎮であるエスムラルダさんに取材を行うことができた。エスムラルダさんは、1994年から26年もの間ドラァグクイーンとして活動している。

 

2 日本のドラァグクイーン界 エスムラルダさん

日本のドラァグクイーンについての取材にはリモートで応じていただいた。エスムラルダさんは素っぴんで画面に登場した。メイクこそしていなかったものの、物腰の柔らかな話し方や上品な立ち居振る舞いからはクイーンとしての一面をひしひしと感じた。

ドラァグクイーンのエスムラルダさん(提供: エスムラルダさん)
ドラァグクイーンのエスムラルダさん(提供: エスムラルダさん)

エスムラルダさんはホラー系ドラァグクイーンとして活動をしており、今年でクイーン歴26年目となるベテランクイーンだ。現在はドラァグクイーンの他に歌手・ライター・脚本家など様々な分野に渡って活躍をしており、2018年にはドラァグクイーンディーヴァユニット「八方不美人」のメンバーとしてデビューもしている。

エスムラルダさんがドラァグクイーンとしての道を歩み始めたのは19949月のことだ。友人であり現在もドラァグクイーンとして活動されているブルボンヌさんと共に、当時LGBTイベントの余興としてドラァグクイーンに挑戦したことが初めてのステージだった。始めた当初は、仲間内のイベントで年に一度か二度ドラァグショーをやる程度だった。1997年頃になると、時代の変化に伴い新宿二丁目の小さなクラブ等で小規模なイベントが頻繁に行われるようになり、気づけば月に23回ほどドラァグクイーンとしてイベントのショーに呼ばれるようになったという。そして現在に至るまで26年間、多くのショーや舞台に出演されている。

「自分でも26年間続けるとは考えていなかった。メイクをするのは面倒くさいけど()、お客さんが笑ってくれたり盛り上がってくれるのを見るのは楽しいし元気が出る」と語るエスムラルダさんの笑顔からはゴージャスなクイーンとしての顔が垣間見えた。

 

ドラァグクイーンの生態

日本の多くのドラァグクイーンは普段はサラリーマン等の仕事を本業に持っており、副業や趣味としてクイーンの活動をしている方が多いという。そのためドラァグクイーンとしての仕事は、それぞれのクイーンが個人で依頼を受けて行なっているそうだ。そんな日本のドラァグクイーンの主な活動はクラブイベントでのドラァグショーである。またクラブのフロアでお客さんと話したり踊ったりしてフロアを賑やかすことをメインとして活動しているクイーンも存在する。それ以外にも結婚式に呼ばれてショーをやる仕事やメディア露出、大きなゲイパレード等のイベントの司会の仕事などもあるそうだ。

イベントで司会を務めるエスムラルダさん(提供: エスムラルダさん)
イベントで司会を務めるエスムラルダさん(提供: エスムラルダさん)

またクイーン達の間では、1日でも早く塗った人(ドラァグメイクをしてクイーンとして舞台に立った人)が先輩という決まりがあるそうだ。年齢に依存しない、独自の上下関係が重視されていることもドラァグクイーン界の特徴である。

 

日本のドラァグ文化の歴史

エスムラルダさんは日本にドラァグ文化が上陸したほぼ当初からドラァグクイーンとして活動されていた。そのため魚住(2018)に記述されていたような古橋梯二さんのことや、日本でどのようにドラァグ文化が広まっていったかを自ら見聞きしてきた生き証人である。したがって本作品ではエスムラルダさんの語る経験やお話を日本のドラァグ文化の歴史として扱うこととする。

日本に初めてドラァグクイーンが持ち込まれたのは1980年代後半のことであり、ドラァグ文化の誕生から一世紀ほど経ってからのことだった。京都で活動していた古橋悌二さんが「ミス・グロリアス」としてドラァグクイーンに扮したのが始まりとされている。古橋さんがニューヨークに住んでいた際に知ったドラァグクイーンを自ら輸入したのだ。古橋さんは現代芸術家であり「ダムタイプ(dumb type)」というパフォーマンス集団のリーダーとして活動をしていた。古橋さんらが撮った映画「DIAMOND HOUR(1994)では、古橋さん扮する「ミス・グロリアス」が出演し、日本のドラァグ文化に大きな影響を与えたという。

その一方で、新宿では1990年代から新宿二丁目のゲイバーのママたちの間でプレドラァグクイーンという形からドラァグ文化が始まったとされている。プレドラァグクイーンというのはメイクをあまりせずにゴージャスな衣装を着るだけの女装である。プレドラァグクイーンによるクラブのゲイナイトでの女装ミスコンによって、二丁目にドラァグ文化が浸透していったという。このように日本では1990年代頃に京都と新宿にドラァグ文化が輸入された。西と東で別々のルーツを持っているのだ。

 

日本のドラァグショーは特殊?

日本と海外のドラァグ文化の違いについてのお話を聞く中でエスムラルダさんは、「日本のドラァグは独自の文化がある」と語る。日本と海外ではドラァグショーのパフォーマンス内容に大きな違いがあるというのだ。海外のドラァグショーの基本的なパフォーマンスはディーヴァの曲に合わせて演出を入れながら行うリップシンクである。曲以外では、せいぜいライブ音源のMC部分をリップシンクで忠実に再現するといった程度だそうだ。しかし日本のドラァグショーは独自に発展したお笑い要素の強いパフォーマンスが存在するという。そういった独自性の強いパフォーマンスをする代表的なクイーンがブルボンヌさんである。ブルボンヌさんはドラァグショーのお笑い要素をいち早く先鋭化し日本独自のドラァグショーを作り上げてきた。具体的にはジブリ映画やテレビドラマのセリフを加工・切り貼りしてまるでコントのように再構築したものをリップシンクの音源とするパフォーマンスなどが挙げられる。このようなブルボンヌさんのパフォーマンスをきっかけに、日本のドラァグショーは海外に比べお笑い要素が強いものが増えていったという。

ドラァグショーを行うエスムラルダさん(提供: エスムラルダさん)
ドラァグショーを行うエスムラルダさん(提供: エスムラルダさん)

「ブルボンヌさんのように映画やドラマのセリフを切り貼りしてリップシンクしているクイーンは海外にはいない。日本語がユニバーサル言語じゃないことがもったいない(くらい面白い)」とエスムラルダさんは話す。

 

クイーンの多様性「みんな違ってみんないい」

「ドラァグクイーンの中にもいろんなタイプのクイーンがいる」とエスムラルダさんは語る。クイーンは大きく三種類のタイプに分けることができるという。一つ目は綺麗になりたい、より女性に近づきたいというクイーン。二つ目はあくまでもステージパフォーマンスをするのが好きだというクイーン。そして三つ目は豪華に着飾りたい、奇抜なファッションで人々を驚かせたいというクイーンである。そのため、ひと昔前までは日本のドラァグクイーン界で綺麗系ドラァグクイーンとお笑い系ドラァグクイーンとの間に緩い派閥闘争があったという。ドラァグクイーンは美しく誇り高くあるべきだと考える綺麗系クイーンと、お客さんに楽しんでもらうことも大切だと考えるお笑い系クイーンの信念の違いから生まれた対立である。

ところが近年では、日本のドラァグクイーン界の考え方として「みんな違ってみんないい」という考えが一般的になっているとエスムラルダさんは話す。一人一人がドラァグクイーンとしての信念を持ってやりたいことをやり、そしてお互いのパフォーマンスを面白がるという環境が出来上がっているという。エスムラルダさんは「今の日本のドラァグクイーン界は、多様性を認め合う美しいあり方だと思う」とも語った。

 

日本のドラァグ文化は閉鎖的なのか?

私はエスムラルダさんへの取材を終えた際に、自らがドラァグをはじめとするLGBTQ+の文化への理解が十分に足りていないと感じた。そこで知り合いの方に頼み、新宿二丁目にあるバー、いわゆるゲイバーに連れて行ってもらうことにした[5]。そこで一客としてバーのママやほかのお客さんと話していくうちに感じた事は、新宿二丁目をはじめとするLGBTQ+文化はどこか閉鎖的だというイメージであった。新宿二丁目にはノンケ(異性愛者)の男性や女性は入店できないお店や、女性のチャージ料が男性よりも2倍以上高いお店もあったからだ。

私は当初、このルポルタージュを通してドラァグ文化をより多くの人に知ってもらいたいという想いも持っていた。しかしドラァグクイーンの中には「好きだからやっている、有名になりたいわけではない」という方もおり、より多くの人に知ってもらいたいという自らの考えに疑問を抱き始めていた。

 

3 日本最年少ドラァグ!? Okiniさん

そのような葛藤の中で次に私は、19(202010月当時)という若さでドラァグパフォーマーとして活動しているOkini(オキニ)さんにお話を聞いた。エスムラルダさんという日本のドラァグクイーンの大ベテランの方にお話を聞くことができたので、次は若手の目に映る日本のドラァグシーンや活動理由を知りたいと考えたからだ。取材の待ち合わせ場所に現れたOkiniさんは180cm近くある身長、ピンと伸びた背筋、そして両耳につけた大きなピアスが印象的なスタイルの良い若者であった。素っぴんで現れたOkiniさんは普段の激しめなパフォーマンスとメイクからはあまり想像のつかないほど穏やかで優しい人柄であった。

Okiniさんの19歳という年齢は現在の新宿のドラァグの中では二番目に若いのだという。しかし、Okiniさんよりも年下の方は現在留学中のため、日本にいる中ではOkiniさんが最年少のドラァグパフォーマーであるといえる。そんなOkiniさんに取材をしていく中で、日本のドラァグシーンの多様性、新しい世代の登場を目の当たりにした。

「AiiRO CAFÉ」にて自身の20歳のバースデーイベントを行なったOkiniさん(著者撮影)
新宿二丁目の「AiiRO CAFÉ」にて自身の20歳のバースデーイベントを行なったOkiniさん(筆者撮影)

 

若手クイーンを取り巻く環境

Okiniさんは現在、月に2回ほどドラァグパフォーマーとして活動をしながら、普段は学生として服飾の勉強をしているという二足の草鞋を履いている。ドラァグパフォーマーとしての主な活動内容はドラァグショーであり、「ハウスオヴ外食」というバーが主な活動場所となっている。「ハウスオヴ外食」には外国人クイーンが多く在籍しているため、Okiniさんのショーは日本のコメディ色が強いドラァグショーというよりは、美しい衣装とメイクに身を包み激しいダンスやリップシンクを行うという内容のパフォーマンスが多い。過去にはファッションショーのモデルや外国人アーティストのMV出演などの経験もある。

しかしOkiniさんの周りでは、ショーやイベントに参加してもクイーンとして正当なクレジットが支払われないことや、知り合いのクイーンがドラァグを知らない人々から心ない言動を浴びせられることもあるという。

「そういった状況も変えていきたいので、私はドラァグコミュニティを盛り上げていきたい、ドラァグ文化がメインストリームになることは嬉しい」と語ってくれた。

そんなOkiniさんにドラァグパフォーマーとして活動する理由を尋ねると間髪入れずに即答してくれた。

「自分を使って人に力を与えることができるドラァグが好きなんです、それしかできないし、歓声や拍手がないと生きていけないから」

私はこの答えにOkiniさんのドラァグへの愛を感じた。

 

「ル・ポールのドラァグ・レース」に魅せられて

Okiniさんがドラァグパフォーマーとして初めて舞台に立ったのは2019年の6月、18歳の時である。同年の3月まで広島に住んでいたOkiniさんは、広島にいた頃にNetflixの「ル・ポールのドラァグ・レース」に魅せられた。それをきっかけに自宅でドラァグメイクをするようになり、その画像をSNSにあげて発信していた。またそのSNSを通して実際に活動しているドラァグクイーンの友達を作るなど、SNSを活用してドラァグの世界に足を踏み入れていった。そのような活動をする中で、メイクだけでなく実際にドラァグクイーンとして舞台に立ちたいという想いが強くなり、上京するために東京の専門学校に進学することを決めたのだそうだ。

 

クイーンではなくパフォーマー

ここまでOkiniさんのことをドラァグパフォーマーと表記したように、Okiniさんは普段ドラァグクイーンではなくドラァグパフォーマー/アーティストとして活動をしている。クイーンという表記をしてしまうと女性的なイメージを持たれてしまうことが嫌で、パフォーマーやアーティストという表記の方がしっくりくるのだという。実際にOkiniさんのドラァグはジェンダーファックというコンセプトが根幹にある。ジェンダーファックとは、ドラァグメイクをして長い髪を靡かせながらも付け髭もしているなど、性を感じさせないようなメイクや衣装のことであり、それこそがOkiniさんのドラァグスタイルである。このようにドラァグパフォーマーと表記する方は海外では多く見られ、逆にトランスジェンダーやノンバイナリーの方でクイーンという表記を使っている方は滅多にいないそうだ。

「ドラァグ自体をアートと思ってる人が多いから、そのアートのパフォーマー/アーティストという方がしっくり来るんですかね」

と語るOkiniさんの表情には、ドラァグパフォーマーとしての誇りや信念がうかがえた。

 

日本のドラァグ文化は閉鎖的なのか?()

「日本のドラァグをはじめとするLGBTQ+の文化は閉鎖的である感じたのですが、どうお思いですか?」

取材の中で、私はこれまでに感じていた疑問をOkiniさんにぶつけてみた。するとOkiniさんはこう答えてくれた。

「だんだんオープンになってきているけど、今でも(新宿二丁目では)男性よりも女性の方がチャージ料が高かったりして、(性別で区別するのは)馬鹿だなと思う。だからこそもっと(ドラァグ文化を)広めて誰でもウェルカムみたいな空気を作っていきたいし、私たちも(ドラァグ文化の)端っこでやってるコミュニティだから少しでも興味を持ってくれる人は温かく受け入れたい」

より多くの人に知ってもらいたいという自らの考えに疑問を抱いていた私はもういなくなっていた。

 

4章 コロナ禍を超えた先に

ドラァグクイーンの活動の場所はクラブやバーなどがメインである以上、新型コロナウイルスの影響は甚大なものであった。特に私が取材を行った20206月から11月にかけてはクラブ等でのドラァグショーは基本的に行われていなかった。

そんな中、エスムラルダさんはinstagramのライブ機能を用いてミッツマングローブさんをはじめとする様々なクイーンの方々とコラボを行うなどして発信を続けていた。そんなエスムラルダさんに「コロナ禍が続く中でドラァグ文化はどうなっていくと思いますか?」と質問をしてみた。すると、

(ドラァグショーには)クラブイベントでしか見せられない、絶対電波には乗せられないようなショーがあまりにも多いので、ドラァグクイーンのショーのオンライン化は進まないと思います。(ドラァグ文化は)コロナがひと段落してクラブイベントが本格的に再開されるまでは少し下火になっていく気がしますね。ただ、コロナが収束してイベントが再開された時には、反動で(クイーンの)皆がすごいパフォーマンスを見せてくれると思います」と答えてくれた。やはりコロナ禍ではこれまで通りの活動は出来ていないようで、クイーンの方々のもどかしさを代弁してくれているようだった。私はコロナが収束し次第、電波に乗せられないようなショーを観に行くと心に決めた。

一方でOkiniさんは20203月からの半年程はドラァグパフォーマーとしての仕事はなかったという。しかし10月ごろからはオンラインでのイベントに参加したり、人数制限の中でクラブで踊るなどの仕事が月に2回ほど行えるようになったという。しかし仕事が減ったことは悪いことばかりではなかったようで、

(コロナ禍前までは)Okiniとして生活する時間が長くて、ドラァグを心から楽しめなくなっていたんですけど、(コロナ禍で仕事が減ったおかげで)Okiniとしてじゃなく、本当の自分としての時間を持てましたね。本来の自分を見直せて、人として成長することができました。」と明るく答えるOkiniさんは、日本のドラァグ文化の今後を担う新世代のエネルギーを放っていた。

 

5 Love Drag

(ドラァグクイーン/ドラァグパフォーマーを)好きだからやっている」

エスルラルダさんとOkiniさん。世代のまるで違う二人に取材をしていく中で、共通していたのは根底にあるドラァグが好きだという揺るがない気持ちであった。表現の仕方は人それぞれ違うものの、好きという気持ちで繋がっているからこそ、多様性を認め合う文化が成り立っているのだということを強く感じた。

 

日本独自のドラァグとその魅力

取材を通して明らかになった日本のドラァグの独自性は、コメディ色が強いということ、お互いの多様性を認め合う風潮があるということの二点である。この独自性があるからこそ、日本ではクイーンごとにパフォーマンスの毛色が大きく違う。つまり日本では、ブルボンヌさんをはじめとするパイオニアたちによって育て上げられたコメディ色の強いショーから、Okiniさんのような海外のドラァグショーに近い激しいダンスパフォーマンスやリップシンクを行うショーを観ることができるのだ。これらのショーの中身の幅広さこそが日本のドラァグの独自性を如実に表しているとともに、大きな魅力の一つであるといえよう。

また多様性を認め合うあり方というものはドラァグ文化のみならず、全ての人々が持つべきものである私は考えている。なぜなら私自身が「日本には未だにLGBTQ+に対するネガティブなイメージがある」と実感した経験があるからだ。以前、あるLGBTQ+団体のイベントに客演として関わった時のことである。その団体との初めての打ち合わせの際、「うちはLGBTQ+団体ですが、出演していただけますか?」と質問をされた。ショッキングだった。それまでは身近に感じていなかったが、 LGBTQ+に対するネガティブなイメージを持つ人もいるのだということを改めて実感した。またOkiniさんのお話の中でも、ドラァグクイーンの友人が心ない言葉を投げかけられたという話題があった。

このようなネガティブなイメージは、未知のものに対する不安から生まれるのではないだろうか。人々がドラァグ文化に触れ、LGBTQ+文化を知ろうとするきっかけに本ルポがなることを願っている。

 

 

[1] 本作品では、登場するドラァグクイーンやドラァグパフォーマーの方々に三人称を使用せずに個人名で表記する

[2] 魚住洋一(2018)「There’s No Place Like Home ──ドラァグ・クイーンと「ホーム」の政治」『論理学研究』vol.5, no.1, pp..3-22,
http://www2.itc.kansai-u.ac.jp/~tsina/kuses/05.01uozumi.pdf
(2020年12月15日閲覧)

[3] Andres Mario Zervigon(2002)「Drag Shows: Drag Queens and Female Impersonators」glbtq ARCHIVES, pp.1-2,
http://www.glbtqarchive.com/arts/drag_queens_A.pdf
(2020年12月20日閲覧)

[4] Tim Lawrence(2013)「A history of drag balls, houses and the culture of voguing」p.3,
https://ezratemko.com/wp-content/uploads/2019/05/A-history-of-drag-balls-houses-and-the-culture-of-voguing.pdf
(2020年12月15日閲覧)

[5] 新宿二丁目のバーには十分な感染対策を行なった上で訪問し、ソーシャルディスタンスを保ってお話を伺いました。

このルポルタージュは瀬川至朗ゼミの2020年度卒業作品として制作されました。