外国人収容問題を取材し伝えるということ ― フリージャーナリスト 樫田秀樹氏に聞く


問題を伝える難しさ
私は「外国人収容問題を伝えるということ」をテーマに取材をし、卒業制作としてルポを執筆した。とくに、在留外国人をめぐる「長期収容問題」に焦点を当てた。リサーチや面会活動を通して理解を深める過程で気づいたことがある。それは、社会のあらゆる問題と同様、この問題も、切り口によって全く異なる伝わり方をしているのではないかということだ。記事で扱われる内容も様々である[1]。しかし、字数の制限もあるだろうが、あらゆる立場からの意見を紹介した上で、多角的にこの問題を分析した記事が多くは存在しないことに、この問題を伝える難しさを感じた。その難しさと向き合いながら、発信を続けるメディア関係者は、現状をどうとらえているのか。取材時の難しさと文字にして発信する難しさについて、社会問題や環境問題を中心に取材を続けているフリージャーナリスト、樫田秀樹氏に取材した。(取材・文・写真=木村京。トップの写真は、2019年11月2日、新宿駅東口での緊急集会の様子。樫田氏の写真はご本人に提供していただいた。)

<2020年1月17日、メールでのインタビューで返答をいただいた。以下はその抜粋である。>

 

樫田秀樹1

樫田秀樹氏プロフィール

ジャーナリスト。北海道出身。岩手大学卒業。1989年よりマスコミが報じない国内外の環境問題や社会問題についての取材を開始。「悪夢の超特急 リニア中央新幹線」(旬報社)で第58回日本ジャーナリスト会議賞を受賞。

 

誰が読んでも「事実」だと認めるしかない事項だけで記事を固める

 

――取材時に収容者と向き合う上で特に気をつけていらっしゃることはありますか?

 

樫田 とにかく、相手の訴えたいことをすべて聞くということでしょうか。実は、私は東京入管よりも牛久入管[2]に通うことが多いのですが、それは、牛久入管であれば、取材目的であれば、時間制限がなく、一人の被収容者に対して1時間でも2時間でも時間を割けるからです。30分で相手の訴えをすべて把握するのはなかなか難しいです(もっとも、何回も通えばいいだけの話ですが)。社会問題、環境問題一般に言えることですが、何かを取材するにあたり、その報道内容をあらかじめ決めておいて、それに合うような話だけを引き出すメディアは存在します。特にテレビがその傾向にあります。どの問題にしても、自分が集めた材料を自分の中で整理してから、記事を書くようには心がけています。

 

――記事の客観性を保つためにどのような点に気をつけていらっしゃいますか?

 

樫田 記事の客観性はメディアにおける永遠の課題なのかもしれません。報道に携わる人間には2種類がいます。一つが、現場で起こったことをそのまま伝える「レポーター」。もう一つが、現場で起こったことやその背景を調べて、情報を整理して伝える「ジャーナリスト」。レポーターであれば、現場で起きたことをただ伝えるだけなので、客観性があるといえばあります。ただし、そこに自分の訴えはありません。

たとえば、この入管問題については、私は「問題あり」と捉えています。だから、その問題点をあぶりだすべく、現場で聞いた話、関係者の話、問題の背景を示す公的な資料などを整理して、入管行政は間違っていると訴えるわけです。ですので、そういう意思が働いている時点でどちらにも寄らない記事にはなりません。

ただし気を付けるべきは、自分の主観や理屈をつけることで、そこに誘導するような記事は書かないということです。同時に、入管に問題ありと思っていても、その入管側の言い分も捉えておくことです(たいしたコメントは得られないにせよ)。記事は「事実」だけで組み立てるべきで、ステレオタイプ、私情、センセーショナルな表現は使わないようにしています。客観性の担保とは、定義のしようによっては、一つの問題にアプローチする場合、いろいろな角度から問題に迫り(被収容者に話を聞くだけではなく)、この入管問題に関心をもつ人も、在日外国人の存在を苦々しく思う人も、誰が読んでも「事実」だと認めるしかない事項だけで記事を固めることだと考えることはできます。

 

秀樹2015年

 

一人の人間としてどう対峙すればいいのか

 

――この収容問題には、外国人の人権に対する(政府の)根本的な考え方が背景にあるように感じられます。しかし目にする記事の多くは長期収容や虐待行為など収容施設における具体的な「人権侵害」にクローズアップしているように思えるのですが、根本的な部分まで含めて書くことにはどのような難しさ、課題があると思われますか?

 

樫田 おそらくは、入管庁よりももっと上の立場の誰かの排外主義で入管行政は動かされているかもしれません。あるテレビ局の記者が入管庁長官に取材したところ、「長官は極めて普通の感覚をもつ人だった」と教えてくれました。その記者も「もっと上の政権幹部の意向でこの問題が起きているかも」と推測していました。おそらく、それがどの部署の誰なのかを知るには、よほどの内部通報がない限りは誰も到達できないかもしれません。

たとえば、私たちのできるのは、外国で、難民申請者や被収容者がどう処遇されているかを整理することと、他国の処遇の根幹をなしている法律や政治家の声明などを整理することです。それにより、相手がどういう背景を持っていようとも、一人の人間としてどう対峙すればいいのかの根本が見えてくるかと思います。

 

――この問題がメディアに取り上げられる回数は格段に増えたと思っています。それでもこの問題の複雑さ、深刻さなどが未だにあまり浸透していないのはどんなところに原因があるのでしょうか?

 

樫田 昨年後半から報道が一気に増えました。それは、そのほとんどが、牛久での集団ハンスト[3]→2週間だけの仮放免→再収容の繰り返し、そして大村[4]でのハンスト餓死などそれまでなかったことが起きたからです。人間が同じ人間にしてはいけないことが行われているからです。

とはいえ、報道しないメディアもまだまだ多いです。実は、私も本件での企画をいくつもの雑誌に提出していますが、そのいくつかは、編集長から「でも、彼らは不法滞在や不法就労しているんだろう。自業自得だよ」との回答で終わってしまいます。そこから先に議論は進みません。そして、一般国民も然りです。やはり「自業自得だよ」との声が多く、なぜ、彼らが祖国を捨ててわざわざ日本に来たのかとの背景にまで思いを馳せようとはしません。また、遠い国の難民には深い関心を寄せるNPOも足元にいる外国人には無関心。さらには、ふだんは人権を標榜している国際的組織にしても、継続的にこの問題で動いているところはどれほどあるのでしょう。

入管問題は、あらゆる社会問題の中でも、もっとも人権というものから遠ざけられている問題です。私は、入管問題は、それにどれだけの関心を寄せるかで、その個人や組織の人権に対する意識の高さがわかるバロメーター的な存在だと思います。

牛久ではここ最近で、ようやく普通の仮放免が増えているようですが、もし「2週間の仮放免→再収容→ハンスト」がなくなれば、この報道も同時になくなるのでしょうか?私はその可能性ありだと思います。

メディアはやはり「絵」になるものを追いかけます。「絵」にはならなくても、問題の根本を整理しようとの報道をしようと思えば、長い時間とそれなりの経費がかかります。でも、今、それをやろうとしているマスメディアの記者は2、3人くらいかなと思います。

とはいえ、マスコミがこの問題を永続的に報道できるかと言えば、他の問題もあるだけに、そうはいかないのも事実です。そして、マスコミ以上に大切なのは、それ以外の組織が動くことです。この問題解決に向けて頑張るべきは、被収容者のハンストではありません。外にいる私たち(メディア、NPO、人権組織など)が「絵」になるようなことがなくても、日常的に活動することで、むしろメディアを動かし、問題の存在を世間に広めていくべきだと考えます。継続は力なりです。

 

二つの写真

東京出入国在留管理局内の難民審判部門の案内(左)と収容者との面会に関する案内(右)

(いずれも2019年11月11日、木村撮影)

 

 

インタビューを終えて 「根本」に迫るということ

 

今回の自分自身の取材を通して感じたことは、以下の2点である。

まず、一つ一つの事実が分かれて取り上げられていることが多く、全体像をつかみにくいということである。施設内の人権侵害も、就労目的で来日し、難民申請をしている人々の存在も、かつては、黙認されていた不法就労の取り締まりが近年、厳しくなった結果、収容対象となった人々の存在も、この収容問題をめぐる複数の事実の一部である。しかし、これらの問題はつながっているにも関わらず、それぞれが別々に扱われることで、より全体像の把握が難しくなっている。本ルポルタージュで、これらの問題はつながっていて、ある部分を非難して改善すれば解決するわけではないことを少しでも理解してもらえたら嬉しい。

続いて、あらゆる要因が重なった結果、偏った考え方が形成されやすくなってしまっているのではないかということである。もちろん、その中でも樫田氏をはじめとするジャーナリストたちは、記事の客観性を保つべく努力を重ねていることも分かった。入管行政には、「全件収容主義」[5]という原則が存在するが、収容施設での具体的な人権侵害だけでなく、このような原則についてまで言及することは、公開されている情報が少ないが故に、容易なことではないだろう。問題の根本にまで言及した記事をまとめあげるには、時間も経費もかかるのだ。その結果、公開される情報が少ないことも手伝って、報道を見てもなお、というよりは、報道を見るからこそ収容されている人々はすべて同じような背景を持っていると、情報の受け手にとらえられてしまうのではないだろうか。

私は、収容問題の「根本」に迫ることを、どのような原則や法制度が理由で長期収容が起こっているのかという点ばかりを追い、その理由を解き明かして文字化することであると捉えていた。しかしインタビューで、収容問題は人権問題であることを改めて認識し、人間とどう向き合うべきかという問いを突き詰めていく(少なくとも突き詰めていけるだけの材料となる事実を集める)ことも問題の「根本」に迫ることになると学んだ。またそれは、ジャーナリストとして目の前にいる取材相手とどう対峙すべきか、という点にも通じるとも思った。卒業制作を通して、私がこの問題の多面性を学んだように、この問題の背景まで含めて理解されるよう、入管を批判する立場の人も、外国人を批判する立場の人も、そのどちらもが納得できる「事実」だけを、たとえ「絵」にならない地道な取材になろうとも、積み上げていきたいと思う。こうして事実が積みあがったとき、真の解決策に向けて、本当の議論が始まると信じている。

(追記)2020年3月22日、樫田氏がメールにてお伝えくださった内容の一部を最後にご紹介したい。

「私から付け加えることがあるとすれば、ジャーナリストは、とにかく現場に足を運ぶこと、そして、人と会うことが仕事だということです。人の体温やまなざしを描くには人と会うしかありません。もっとも、これをやれば、たった10分の話をするために、片道2時間をかけることもありまして、非効率ではあるのですが、ここは譲れないと思っています。」

 

<注>

[1]たとえば、長期収容の理由と言える、在留外国人取り締まり強化の背景には、偽装難民の存在やオリンピックとの関連を指摘する記事が書かれている。また施設内での職員の対応など、長期収容によって引き起こされる具体的な人権侵害を取り上げた記事もある。さらに長期収容の背景には「全件収容主義」という入管行政の原則が存在し、その原則そのものが人権侵害であると指摘する記事も存在する。

[2]筆者注:東京出入国在留管理局(東京入管)と東日本入国管理センター(牛久入管)。東京入管は東京都港区、牛久入管は茨城県牛久市に位置する。

[3]筆者注:ハンガーストライキ。牛久入管では、2019年の後半から、収容者によるハンガーストライキが増加した。

[4]筆者注:長崎県大村市の大村入国管理センター(通称:大村入管)。

[5]母国で迫害を受け帰国が難しい人々も、日本で罪を犯した人も、退去強制事由があるという事実だけで、どんな背景があろうとも、収容が可能であるとする原則。

 

<参考文献>

・呉 泰成(2017)「収容と仮放免が映し出す入管政策問題 ── 牛久収容所を事例に」アジア太平洋研究センター年報2016-2017,p.32-39

https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2017-05.pdf

・呉 泰成(2018)「難民認定制度の当事者経験 ── 日本の難民認定申請者への聞き取りから」アジア太平洋研究センター年報2017-2018,p.12-20

http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2018-02.pdf

・織田朝日(2019)「となりの難民 日本が認めない99パーセントの人たちのSOS」旬報社

・関聡介(2012)「続・日本の難民制度の現状と課題」

(2012年11月26日発刊 難民研究フォーラム『難民研究ジャーナル』第2号 特集:難民「保護」を考えるp.2-23)

・田巻 松雄(2019)「外国人児童生徒から「不法滞在者」へ1,2 ──日系人Mの 20年の軌跡── 」エモーション・スタディーズ 第4巻Special Issue, p6-16

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ems/4/Si/4_ES4S002/_pdf/-char/ja

・UNHCR日本ホームページ「日本の難民保護と日本で暮らす難民」日本の難民認定手続きについて」

https://www.unhcr.org/jp/j_protection(2019年11月28日閲覧)

 

本記事は、2019年度卒業ルポ作品に掲載したインタビュー内容を一部修正したものです。