本土から見えない辺野古の「日常」
沖縄メディアと全国メディアが伝えること
那覇市の中心部、国際通りからバスに乗ること約1時間。閑散とした国道を囲むように、木々が生い茂る。緑の合間から見える有刺鉄線の針は、基地の外にいるはずの私たちに向いており、まるで私たちのいる場所が基地に囲まれているように感じた。
米軍基地を抱える地区、辺野古———。台風18号が接近する2017年9月13日、私たちは、辺野古での取材を長年続けている、沖縄タイムス北部報道部長の阿部岳さんの取材に同行させていただいた。阿部さんのお話をもとに辺野古の現実を紹介する。(文=河合晴香、清水郁、写真=清水郁、土方萌)
<トップの写真=辺野古のゲート前で座り込みをする抗議行動の人々を担ぎ上げて排除する沖縄県警機動隊員ら=清水郁撮影>
本土出身の沖縄タイムス記者
東京出身の阿部さんは、1997年に沖縄タイムスに入社した。政経部や社会部などを経て、現在は北部報道部に所属し毎日のように辺野古・キャンプ・シュワブのゲート前に足を運んでいる。元々沖縄に縁もゆかりもなかったという阿部さんが、基地問題に関心を持ったのは大学生のころだった。1995年に沖縄で米軍による少女暴行事件が起こり、大きな話題を呼んだ。ニュースでその様子を見た阿部さんは、基地を抱え続けている沖縄の苦しみや、自らが基地問題についてあまり目を向けたことがなかったことに気がついたという。以前から記者になりたいと考えていた阿部さんは、沖縄で暮らし、地に足のついた取材をしたいと思い、沖縄タイムスの門をたたいた。
報じられない辺野古の日常
私たちが訪れたとき、台風の影響で辺野古には強い風が吹いていた。小雨も降る中、ゲート前には数名の男女が座り込み道をふさぐ。この日は悪天候のため人もまばらだったが、普段は50人ほどの人が集まる。そしてその多くが高齢者なのだと阿部さんは言う。反対側の歩道にも人が詰め寄り、拡声器片手に声をあげていた。資材を搬入するトラックが近づくと怒号は増し、座り込む人々はその場を離れまいと口を結ぶ。しかしすぐに、沖縄県警機動隊員らが手慣れた手つきで人々を担ぎ上げ、トラックが中へ入っていく。トラックの背に向けて、またどこからか罵声が響く。これが辺野古の日常なのだそうだ。
地元紙の記者が毎日現場を訪れる一方で、全国メディアは何か「事件」が起こらない限り、辺野古をめったに報じない。辺野古の護岸工事が始まった2017年4月25日には、全国からテレビ局・新聞社が辺野古へやってきたが、その後の辺野古について本土で得られる情報は限られている。「今日も工事が行われました」「今日も抗議行動が白熱しています」といった代わり映えしない「日常」は、ニュースとみなされないのだ、と阿部さんは話す。だが本当に辺野古では「工事が始まった」ということと同等の、あるいはそれ以上にニュースとなるような出来事が起きていないのだろうか。
キャンプ・シュワブのゲート前では、座り込む人々と彼らを動かそうとする沖縄県警機動隊との争いが日々行われている。海の上でも同様のことが起きている。沖縄タイムスでは辺野古取材において、陸と海の当番を一人ずつ設置しているという。そばに寄ることができる陸での取材とは異なり、海上の様子は少し離れたところから見なくてはならず、その分起きていることも分かりにくいのだと阿部さんは話す。
「第三者から見えにくいからこそ、海上では危ないことも起こりがちです。実際に海上保安庁の船が、市民が乗る抗議船にぶつかるというようなことも起きている。他にも、海上保安官による暴力行為が確認されているが、その多くは表ざたにならずにいます」(阿部さん)
2017年の春に始まった護岸工事が、現在どれだけ進んでいるか報じたメディアは、一体どのくらいあるだろうか。ゲート前での抗議行動を見た後、私たちは阿部さんとともに新基地建設の現場を一望できるという瀬嵩の丘に向かった。大浦湾を挟んで向こう側にみえる辺野古の現場は、思いの外埋め立てがなされておらず、まだ工事が始まったばかりに見えた。阿部さんによると、工事開始から4ヶ月以上が経った9月現在、この護岸工事はわずか100mの地点で頓挫していた。工事が県知事の許可なくなされていること、周辺道路の整備ができていないこと、抗議行動により資材の搬入が遅れていることなど、その理由は複数考えられている。
「初日にはたくさんのメディアが来たけれど、今はもういない。工事が止まっていることは誰も報じません。だからメディアによって、工事が〝始まった〟という既成事実化だけがされてしまって、その後のフォローされていないのが現状」。阿部さんはそう語った。確かに辺野古で起きていることが、本土ではそのまま事実として伝わりきらない。そのもどかしさは、記者として「伝える側」の立場にいる阿部さんが、一番痛感しているのだろう。
大手の新聞社であっても、沖縄支局にいる記者の人数は限られているため、日々辺野古を取材し続けることは難しい。とはいっても辺野古の日常は代わり映えしない繰り返しではない。昨日と同じ明日はない、と言うが辺野古でもそれは同じだ。日々、少しずつ変化がある。そのわずかな変化に着目し、そこから辺野古の抱える問題や、人々の想いを見出して、本土に伝えていくことが、沖縄を取材する記者に求められていることなのではないだろうか。
「移設」「不時着」−−−真実はどこにあるのか
本土で辺野古に関するニュースを見ると、当たり前のように「移設」という文字が続く。しかし、辺野古に来てみると「移設」という言葉を見聞きすることはほとんどなかった。「辺野古の基地は普天間の〝移設〟なんかじゃない。これは完全に〝新基地〟です」。ゲート前で抗議運動をする女性が、拡声器を手にそう訴えていた。
2004年、普天間基地(沖縄県宜野湾市)に隣接する沖縄国際大学の建物に米軍ヘリが墜落した。この事件を機に2年後の2006年、普天間飛行場を全面返還し、元の機能の一部を、辺野古に「移設」するとした日米ロードマップが定められた。しかし実際のところ、普天間飛行場は未だに利用され続け、辺野古に新たな滑走路が建設されようとしている。阿部さんによると、辺野古の新基地建設は、アメリカにとって大きなメリットがあるのだという。
アメリカ側が辺野古に見出したものとは何か。まず一つ目に弾薬庫の存在がある。辺野古には、キャンプ・シュワブに隣接して、またもう一つ別の基地施設である弾薬庫が存在する。ベトナム戦争当時、この弾薬庫に核兵器が格納されていたことは、公文書でも明らかになっている。仮に現在、米軍が弾薬を積んだ軍用機を日本から飛ばすとなれば、普天間から軍用機を出した後に、弾薬を積むため他の基地を経由しなくてはいけない。しかし、辺野古に滑走路のある基地を作ることで、すぐに弾薬を積んで出発することができる。また辺野古の海は深く、軍艦を陸地に横付けすることができる。つまり辺野古の新基地は、陸空海のすべての軍事力を集約した、大型基地として建設されているのだ。
全国メディアと現地メディアで言葉の選択が違う例は他にもあった。例えば、オスプレイの「不時着」もそのひとつだ。2016年12月、名護市でオスプレイの事故が発生した。米軍はこれを不時着と発表したが、現場を見れば機体がバラバラに破損している。不時着でないことは一目瞭然だった。しかし、全国メディアの多くは米軍の発表通り不時着と報道した。阿部さんはこの傾向について「事なかれ主義なんじゃないか」と指摘する。墜落と書けば根拠は何なのかと問われる。それならば発表した通りに報道しようという流れだ。米軍基地関連の報道では、米軍が発表し、日本政府が従い、そして全国メディアが従うという構図が出来上がってしまっているのだ。
「移設」と「新基地」も「不時着」と「墜落」も、書き方ひとつで印象が変わってくる。場合によってはその言葉選び次第で誤った事実を伝えかねない。些細な違いのようにも見えるが、この点について報道する側は今一度考える必要がありそうだ。
“無関心”という呪縛から逃れるために
沖縄に基地問題があることは沖縄県民でなくとも誰もが知っているはずだ。しかし、どれだけの人が辺野古の日常を知っているだろうか。そして、どれだけの人がそれを知ろうとしているだろうか。これは私たちだけでなく記者に向けた問いかけでもある。沖縄以外のメディアが毎日のように基地問題を報道するのは難しい。それは阿部さんも承知の上だ。しかし、一見代わり映えしないように見える辺野古の反対運動も、報道する切り口はいくらでもある。その新しい視点を探すのが記者の仕事だ。「どういう角度でもいいんですけど、まずその記者自身に関心を持って欲しい。当事者意識を持って欲しい」と阿部さんは語る。
反対運動が長引くにつれて状況が複雑化している辺野古。一刻も早く本土の“無関心”という呪縛から抜け出さなければならない。そのためには、本土のメディアに所属する、より多くの記者が当事者意識を持って本土に向けて報道していくことが求められている。
この記事は2017年9月の沖縄ゼミ合宿での取材をもとに作成しました。