遠い場所、遠い時代へ伝えたい 東京うまれが見る特攻隊


序章

「戦争」について書きたいと思ったのは、いつからだっただろうか。

私の通っていた小学校では、戦争に関する授業やワークショップが頻繁に行われていた。幼い頃からたくさんの美しいものに触れさせてもらってきた私にとって、それは非常に怖くて残酷で、今思えば目を背けてばかりだった。国語の教科書には必ず戦争のお話が載っているし、私たちにとって避けては通れない道なのだと分かってはいても、どうにも敬遠してしまうのである。

しかし成長するにつれて、テレビを見ていても、新聞を読んでいても、戦争の特集ばかりが目につくようになった。私たちが生きてきた「平和」の端々に、過去の痛みが根を張っていると感じられたからだ。そろそろ卒業作品のテーマを決めるという時期になって、今までスクラップしてきた新聞記事などを読み返す中で、やはり気に掛かるのは戦争のことだった。そして、「自分はこれを書きたいのかもしれない」と、思った。

かつて戦争から目を背けてしまっていた身だからこそ、同年代の人々が戦争について考えるきっかけを作りたい。そう考えたとき、ちょうど私たちくらいの年齢で亡くなった特別攻撃部隊(通称・特攻隊)の人々に思いが及んだ。私たちと同い年くらいか、あるいはもっと若い人々が亡くなっているのに、自分は思ったよりも特攻隊のことを知らない、と感じたのだ。

現代には特攻隊を讃える人々もいれば、特攻という行為そのものを否定する人もいる。そう思うと、小学校でほとんど話を聞いた記憶がないのも、自然なことなのかもしれない。しかし何よりも、特攻隊について調べる中で知った「沖縄戦の陸軍特攻死者数は東京出身の人々が最も多い」という事実に私は驚いた[ⅰ]。東京にいて、特攻隊について知る機会などほとんどなかったのに。出撃地(主に九州地方)から離れた場所で特攻隊について伝えることは、私が考えていたよりもずっと難しいことのように思えた。

図1
陸軍沖縄戦都道府県別特攻隊員戦死者数(知覧特攻平和会館ホームページ[ⅰ]をもとに筆者作成)
遠く離れた地から出撃し、もっと離れた地で亡くなった特攻隊員たち。でもそれぞれに家族がいて、それぞれの思いを抱えていた、私たちと同年代の若者たち。時間的・距離的な遠さを持った人々にも「考える」きっかけとしてもらうためには、どのように伝えていくべきなのだろうか。この機会に、考えたいと思った。

(取材・文=佐々木彩佳、写真=提供、佐々木彩佳)

 

第一章 東京と特攻隊 – 世田谷観音 執事・太田兼照さん

身近に感じた特攻隊

テーマを決めてすぐ、私は新宿区の平和祈念展示資料館に足を運んだ。平和祈念交流展『息子として、兄として、父として − 特攻隊員が遺した言葉 知覧特攻平和会館 所蔵資料展[ⅱ]』が開催されていたためである。特攻隊の出撃地があった鹿児島県・知覧の知覧特攻平和会館と共同で開催された企画展であり、特攻隊員たちの手紙(模写)が展示されていた。

平和祈念交流展『息子として、兄として、父として − 特攻隊員が遺した言葉 知覧特攻平和会館 所蔵資料展』(提供:平和祈念展示資料館・知覧特攻平和会館)
平和祈念交流展『息子として、兄として、父として − 特攻隊員が遺した言葉 知覧特攻平和会館 所蔵資料展』(提供:平和祈念展示資料館・知覧特攻平和会館)

特攻隊の展示ブースは、館内のかなり奥まったところにあった。しかし多くの人々が足を止め、各々の思いを抱えながら展示を見ているようだった。家族に宛てた手紙に涙する者、無謀な行為であったと否定する者。たった数十分の滞在だったが、特攻隊に対して様々な感情を持つ人々がいることがわかった。

奇遇にも、現在私が住んでいる街で生まれ、知覧から出撃し、そして亡くなっていった隊員の手紙も展示されていた。特攻隊員である前に、彼らはみんな人間だったのだ、と強く感じた。不思議なことに、卒業作品に取り掛かるまではほとんど関わりがないと思っていた特攻隊員たちが、急に身近に思えてきた。

出撃地から離れた東京ではあるが、特攻隊に関係するイベントなどが開催されることは少なくないらしい。今回の交流展について、開催元の平和祈念展示資料館に問い合わせたところ、「知覧特攻平和会館とは戦後70年の2015年に続いて2回目の連携事業となります」と教えてもらった。しかしやはり、「都内で特攻隊を専門に紹介する施設はない」とのことだった。

特攻隊ゆかりの寺院・世田谷観音

何か手がかりはないかと、「東京 特攻隊」で検索してみた。しかし、東京都内で特攻隊についてのお話を伺うことのできる場所は、やはり限られているようだった。

そんな中見つけたのが、東京都世田谷区下馬に位置する寺院・世田谷山観音寺(以下、世田谷観音)である。世田谷観音には、「特攻平和観音像」なるものが存在するらしい。また世田谷観音は、平和祈念展示資料館の職員の方に提供してもらった、特攻隊に関連する数少ない施設や団体のリストにも含まれていた。

じめじめした夏の日、バスに揺られながら世田谷観音に向かう。バス停『世田谷観音』で下車し、閑静な住宅街を進むと、程なくして『世田谷山観音寺』の門標が見えてきた。門標は、元内閣総理大臣・吉田茂の手に依るものだそうだ。

世田谷山観音寺の外観(撮影:佐々木 彩佳)
世田谷山観音寺の外観(撮影:佐々木 彩佳)

今回取材したのは、世田谷観音の執事・太田兼照さんだ。私の両親と同い年くらいだという太田さんは、「戦争に関する話を伺いに行くんだ」と身構えていた私に対して、とても気さくに話してくれた。

世田谷観音は、1951年に開かれた比較的新しいお寺である。開祖は、太田さんの祖父にあたる先々代・睦賢和尚だ。かつては音羽の護国寺にあった「特攻平和観音像」を引き取ることにより、特攻隊ゆかりの寺院としても知られるようになった。現在も毎月18日には慰霊法要が、9月23日には大きな法要が営まれているという。

特攻平和観音像が東京にある理由

先に述べたように、東京都内に特攻隊関連の施設は少ない。ではなぜ特攻平和観音像がこの場所にあるのだろうか。世田谷観音にまつわる資料『特攻平和観音と世田谷山観音寺[ⅲ]』を元に、太田さんが説明してくれた。

そもそも特攻平和観音像とは、沖縄特攻作戦の最高責任者でもあった及川古志郎元海軍大将、彼と親交のあった関口真大師、また関口師の友人である真言宗と浄土宗の僧侶によって、特攻で亡くなった人々を弔うために作られた108体の像を示す。この内、最初に造られた2体の像に魂が入れられ、音羽の護国寺に納められていた。しかし、やがて像を維持するためのお金を納め続けることが難しくなった結果、特攻観音像は行き場所を失ってしまう。

特攻平和観音像(撮影:佐々木 彩佳)
特攻平和観音像(撮影:佐々木 彩佳)

この特攻平和観音像が最終的に落ち着くこととなったのが、世田谷の地であった。多くの寺院で受け入れを断られた特攻平和観音像を世田谷観音に迎え入れることとなった大きな理由の1つは、先々代・睦賢和尚と、清水光美元海軍中将という人物との関わりにある。

清水元中将は、先述した及川元大将から、観音像が行き場を失っていることを聞いた。これを憂えた清水元中将は、同郷(長野県)で元から親しい間柄にあった睦賢和尚に話を持ち掛けることにした。創建間もない世田谷観音での引き取りには遠慮があったものの、清水元中将の熱心な頼みにより、睦賢和尚は観音像の受け入れを決める。

特攻平和観音像を安置するにあたり、併せて特攻平和観音堂も建立されることになった。斯くして、世田谷観音は後天的に特攻隊ゆかりの寺となる。

特攻平和観音堂(撮影:佐々木 彩佳)
特攻平和観音堂(撮影:佐々木 彩佳)

開山のきっかけは宣教師 −「誰でも受け入れる」在り方

世田谷観音が特攻隊ゆかりの寺となったのは、単に清水元中将との関係だけに依らない。それは世田谷観音の「誰にでも門戸を開く」在り方に深く結びついていると言っていいようだ。

元々は酒屋の子息であった睦賢和尚は、イギリス人宣教師・リー女史との出会いをきっかけに、自らの資材を投じて世田谷観音を開山した。ハンセン病で苦しむ人々に寄り添い、「草津のお母様」と慕われたリー女史の影響を受け、人々の心を救う宗教施設を開きたいと考えたようだ。

しかし、イギリス人宣教師との出会いとお寺の創建が結びついたというのは、一見すると不思議な話である。キリスト教に基づいた教会ではなく、日本式の寺院が設立された理由とは、一体何なのだろうか。

太田さんの話によると、睦賢和尚は敢えて「寺」を設立したのだという。「お寺に神道のものがあってもおかしくはないんですね。でも神社にお寺の仏像とかはちょっとね。キリスト教の教会に仏像っていうのもちょっと。日本古来というのだったら神道なんでしょうけども、お寺が文化的に一番いいのかなあということになったんだろうと思います」と太田さんは話す。

加えて世田谷観音は、特定の宗教や宗派に属さず、総本山の傘下にも入らないという「単立」の形式をとっていた。どんな人にも門戸を開くことができるよう、睦賢和尚が決断したことだ。

そしてこの形式をとっていたが故に、世田谷観音は特攻隊と深い関わりを持つことになった。特攻で亡くなった者には、様々な宗派、様々な信仰を持つ人々がいる。また外国(中国や韓国など)出身の人もいたという。そのような人々全てを祀ることのできる場として、世田谷観音は最適だった。

世田谷観音のいま

特攻観音堂の中で太田さんのお話を伺っている最中にも、数名の拝観者が世田谷観音を訪れていた。御朱印を求めてやってくる人も少なくない。ただ、私ほど年若い来訪者はいないように見受けられた。

世田谷観音の拝観者にはどのような人々がいるのかを尋ねたところ、自衛隊関連の人々が多いとのことだった。特攻隊員の親族でいうと、直系の人々はもういなくなってしまったが、甥や姪の家系の人々は未だ世田谷観音に足を運んでいるそうだ。

また特攻隊に関連した舞台作品などを見て訪れる、30代から50代くらいの新規拝観者もいる。「舞台を見られて、興味を持たれて…という方が多いんですね」と太田さんは話す。

世田谷区に特攻隊ゆかりの寺院があるという事実は、残念ながらあまり知られていない。しかし、特攻隊に関する舞台作品の上演や小説の出版は、特攻隊に関わりのない人々や、戦争を体験していない世代からの認知にも繋がっていることがわかった。若年層の興味関心を高めるためには、やはり舞台や小説といった作品をきっかけとしてもらうことも重要であるように思えた。

「心に寄り添う」

取材も終盤に差し掛かった頃、今回私が最も気になっていた「特攻隊を伝えること」について、太田さんの考えを伺ってみた。

太田さん自身は伝承活動にも関心を抱いているものの、特攻隊を巡っては様々な意見を持つ人々がいるため、どうしても躊躇してしまう部分があるとのことだった。出版物に描かれる特攻隊に対しては、例えば「ここまで酷くない」「これより酷かった」といった相反する意見が見られる。「(特攻隊に対して様々な考え方があることを)否定するつもりはございませんけれども、やっぱり意見は割れますよね」と太田さんは言う。

また太田さんは、「史実に基づいた、事実に基づいたことを伝えていただきたい」とも話していた。「事実には憶測と意見がどうしてもついてくる。事実を歪めるのではなく、意見や憶測とは分けて伝えてほしいと思います」。

戦時中は崇め奉られた隊員やその家族が、戦後は軍国主義の象徴として多大なる批判にさらされることになったと聞いたことがある。平和祈念展示資料館における来館者の反応が多種多様であったように、過剰な肯定も否定もなしに、ただ事実に基づいたことのみを信じて正確に特攻隊を捉えることは、案外難しいのかもしれない。

最後に「今後の特攻隊の伝承について、何か思うことや望むことはありますか」と私が尋ねると、「こんな(戦争の)時代、ものもない時代に質素なものを食べて、親元を離れて、明日は出撃という、想像もできないことをやっていらっしゃったというのはすごいんだなと思います。ただそれだけですね。そういうふうに思うのがいいんだと思います。あとは『心に寄り添う』というか、ああ大変だったんだろうな、とか。そういう方々がいたんだということを忘れないことですね。感謝の気持ちを忘れないというのが大事だと思います」と語ってくれた。

特攻隊に対する意見は様々だが、亡くなった人々の「心に寄り添う」気持ちは、どんな人々も共通意識として持つことが出来る。太田さんの声には力がこもっていた。

関連施設の少ない東京では、特攻隊に触れる機会も少ないかもしれない。しかし東京から出撃した多くの若者が命を落としているのも事実だ。住む場所に関係なく、一人でも多くの人々が「寄り添う」気持ちを持つことを、太田さんは強く願っている。

 

第二章 若者と特攻隊 − 作家・汐見夏衛さん

「……特攻なんて、自分から死にに行くなんて、馬鹿だよ。そんなの、ただの自殺じゃん……。馬鹿だよ。特攻を命令した偉い人も、それに従ってる人たちも、みんな馬鹿。やめればいいのに。逃げちゃえばいいのに」 [ⅳ]

小説『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』で、現代を生きる女子中学生・百合が放った言葉だ。現代人の感覚からすれば、特攻とは命を投げ出す行為であり、二度と繰り返してはならない過去の現実である。ただ戦時中の人々がこの言葉を耳にすれば、国のために戦っている人々に対して何たる言い草かと強い怒りを覚えたことだろう。

若者向けの文学を通じて、戦争について伝えようと試みている作家がいる。『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』の作者、汐見夏衛さんだ。

主人公・百合が70年前の日本にタイムスリップし、特攻隊員と交流した数日間を描くこの作品は、出版から4年もの月日が流れた後に動画アプリ・TikTokで話題になった。2020年6月頃、一般読者による作品紹介の投稿が「バズり」、約1年間で19.1万部を突破。また現在では、コミック版なども発売されている[ⅴ]。

今回は、SNSアプリ・Twitterのダイレクトメッセージを通して、小説『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』を軸に、作者の汐見さんに取材を行った。

小説『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(スターツ文庫出版)[ⅵ]
小説『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(スターツ文庫出版)[ⅵ]

特攻隊を携帯小説で − 若者に伝えたかった戦争

汐見さんは、特攻隊の大規模な出撃地があった鹿児島県の出身だ。自身の祖父母からも、戦争の体験談を聞いていた。また祖父母の家の仏壇には軍服の人物の写真も飾られており、戦争が現実にあったことなのだという意識は強かったという。しかし、高校の国語教師として戦争関連の教材を扱った際、現代の高校生との認識の違いを感じることになる。「今の高校生は祖父母すら戦争を体験した世代ではなく、戦争というものが非常に遠いものだという感覚なのだと知りました」と汐見さんは話す。

戦争が「現実に起こったことである」と若者たちに意識してもらうため、自分には何ができるか。思い立ったのは、戦争を小説の題材として扱うことだった。

主人公を「現代の女子中学生」に設定したのも、作品に今の価値観を取り入れるためだ。若者が等身大で共感しやすい人物、かつ中学生であるが故の「青臭さ」や「周囲の環境や世間の目そっちのけで自分の考えを主張してしまう痛さ」を兼ね備えたキャラクターとして、主人公・百合は描かれた。

この作品においては、戦争や特攻隊の話と共に、主人公・百合と特攻隊員・彰の恋愛も重要な一角を成している。戦争や特攻隊がメインテーマではあったものの、若者がより感情移入して読むことができるよう、恋愛の要素を絡めたのだという。ここにも、現代の若者に戦争をリアルに感じてもらうための工夫があった。

また、戦争を現実に起こったものとして捉えてほしいという汐見さんの考えは、その他の登場人物にも表れている。主人公・百合が出会う様々な特攻隊員の中には、特攻という行為に命をかける者もいれば、残してきた妻を思い特攻から逃げ出したいと考える者もいる。当時も特攻に対する考え方はそれぞれ異なっていたであろうと考えた汐見さんは、敢えて性格や価値観の違う隊員を作品に登場させた。

本章の冒頭部分でも取り上げたように、主人公・百合は、特攻という行為への嫌悪感や戦争への反対意識を直接的な言葉で表す。そして、当時の人々であれば口に出すことのできないような特攻隊への辛辣な意見を、隊員たちに向かってぶつける。「百合はあまりにも幼稚で考えなしで、傍から見ていて歯がゆく、腹立たしく感じる読者さんも多いと思います。ただ、だからこそ戦時中の世間の風潮に馴染むことなく現代の感覚そのままで戦争や特攻作戦を見て、若い読者さんにも戦争を身近に感じやすくなっていたらいいなと思います」。

主人公・百合の時には鋭すぎる物言いには、どんな意味を持っていようとも戦争はあってはならないことであるという現代の感覚が、鮮烈に反映されているのだろう。

SNSが動かす作品の知名度

先に述べた通り、この作品は出版から4年後に動画アプリ・TikTokを通じて話題となった。思いがけないSNSの影響を、汐見さんはどのように感じているのだろうか。

Twitter以外のSNSを使用したことがなかった汐見さんは、TikTokを「ダンス動画をあげるツール」であると認識していた。本を紹介する動画があるという印象もなかった。そのため、TikTokを通じて自身の過去作品が再注目されていると知った際にはただただ驚いたという。

また、汐見さんを取り巻く環境にも変化があった。ファンレターの数は増え、ファンと直接コミュニケーションを取るツールとして汐見さんが利用しているTwitterでは、リプライやダイレクトメッセージの数も増加した。

SNSの普及により、小説作品が若者たちの目に触れる機会は増えている。出版業界全体にとっても大きな変化だ、と汐見さんは語った。

思えば、執筆活動や子育てに多忙な汐見さんに取材を行うことができたのも、Twitterというツールがあったからだ。SNSが普及していたから、戦争伝承というテーマのもと、汐見さんと連絡を取ることができている。

現代における新しい伝承の在り方として、SNSは重要な役割を担い続けていくのだろうと、身をもって感じた。

特攻隊を伝える作家として

最後に、現代・そして未来における戦争伝承について、汐見さんの考えを伺った。戦争体験者の減少という抗えない事実の前で、汐見さんのように戦争を体験していない伝承者は、どのような思いを抱いているのだろうか。

「理想としては、戦争を実体験として語ることができる方々の生のお声に勝るものはないと思います」と汐見さんは言う。「でもいつまでも可能なことではなく、すでにフェーズが変わりつつあると思うので、資料館や平和会館などを末永く存続させていくこと、そしてそのような場所に足を運ぶきっかけになるような文学作品や漫画、映画、テレビ番組や新聞記事などが今後もどんどん新しく作られ続けていくことが重要だと思います」。

戦争体験者や伝承者が出来ることにも限りがある。何よりも大切なのは、若者たち自身が「考える」ことだ。若い世代の人々が多様な意見に触れる機会を作ることの重要性を、改めて指摘した。

若者が戦争を知りたい、戦争について考えたいと感じる些細なきっかけは、至るところに存在しうる。伝承者としての汐見さんの声は、小説やコミック、SNSなど様々な媒体を通じて、現代を生きる若者の心をたしかに動かしている。

 

第三章 特攻隊を伝える – 知覧特攻平和会館 学芸員・羽場恵理子さん

私がこの地を訪れたのは、照りつくような日差しと青空が輝かしい真夏のことだった。辺りには日光を遮るような大きな建物がなく、空が近く広く見える。年端もいかない特攻隊員たちもこの眩しさの中で短い一生を散らしていったのかと思うと、どこかやるせない気持ちになった。

特攻隊の大規模な出撃地があった鹿児島県南九州市知覧街郡には、現在でも関連施設や史跡が残されている。中でも特攻隊に関する資料や遺品などを数多く所蔵しているのが、今回の取材先・知覧特攻平和会館だ。知覧飛行場の跡地にあるこの施設には、今なお多くの来館者が訪れ、知覧から飛び立った隊員たちに思いを馳せる。

知覧特攻平和会館(撮影:佐々木 彩佳)
知覧特攻平和会館(撮影:佐々木 彩佳)

知覧特攻平和会館においては、来館する人々、あるいは来館が叶わない人々にも特攻の記憶を伝えていくため、どのような取り組みが行われているのだろうか。2020年から学芸員として働いている、羽場恵理子さんにお話を伺った。

知覧特攻平和会館を訪れる人々

「若い人が戦争を知らないというふうによく言われますけど、20~30代の個人旅行の人も多いので、関心が薄れてはいないんだろうなと思っています。大学生の仲良しの子で旅行に来ているんだろうなという方もご来館されます」。知覧特攻平和会館を訪れる人々について、羽場さんはこう話す。

コロナ禍で団体客は減ったものの、学校行事や観光など、依然として様々な目的で幅広い年齢層の人々が、知覧特攻平和会館を訪れている。広い年代かつ戦争を知らない世代の人々も来館している施設だと、羽場さんは感じているそうだ。地理的に近い九州地方からの来館者は多いが、関西や関東からの観光客や団体客も、決して少なくない。

そして、このような時代だからこそ知覧を訪れる人々もいるというのが、羽場さんの考えだ。「今の不安定な社会情勢から特攻について知りたいという人たちが来館するのかなと思っています」。災害に疫病に戦争と、現代社会に不安を憶える人々も多い。その中で、死を身近に感じながら生きた特攻隊員たちに関心を寄せる人々も多いのかもしれないという考えは、心に刺さった。

「遠い場所」に伝えるための工夫

卒業作品のテーマを決定した後、東京には特攻隊関連の施設が少ないという前提で取材を進めてきたのだが、羽場さんの意見は意外なものだった。「関東に(特攻隊関連施設が)少ないというのは、必ずしもそうはいえないと思います」。関連施設が東京に少ないのではなく、知覧に慰霊の心を持った人々が集まってきたと考えるのが自然だろうと言うのだ。「(関東の人々が)関心がないわけではないと思うので、だからこそ平和会館の存在を知ってもらいたい。遠いから知らないだろうなで終わらないで、平和会館にはこんなものがありますとアプローチしていくべきだと思います」と羽場さんは話した。

遠方から知覧特攻平和会館を訪れる人々にとっては、交通手段の少なさもネックになる。特に、バスや電車などの公共交通機関が発達している関東の人々からすると、知覧は交通の便が悪い。斯くいう私も、2時間に1本という限られたバスの本数に驚き、乗り逃しやトラブルを恐れて眠れぬ一夜を過ごしたほどであった。また鹿児島中央駅から知覧特攻平和会館までは、バスで80分ほどかかる。より多くの人々に知覧特攻平和会館を訪れてもらうためには、これも課題のひとつだ。羽場さんたち学芸員の方々は、ホームページにできるだけ分かりやすくアクセスなどを記載するよう、改良を重ねている。

出撃地から離れた場所に住む人々にも特攻隊を伝えるため、知覧特攻平和会館では、他にも様々な取り組みを行っている。

知覧特攻平和会館の入り口には、海軍零式艦上戦闘機、通称・零戦が展示されている。平和会館について調べる中、私はSNSで何度もその写真を目にしていた。遺族や関係者に配慮して館内は原則撮影不可としている知覧特攻平和会館だが、撮影可能エリアを作ることにより、SNS等にアップしてもらい、より多くの人々に知ってもらうためのきっかけを作っているという。

海軍零式艦上戦闘機 展示コーナー(撮影:佐々木 彩佳)
海軍零式艦上戦闘機 展示コーナー(撮影:佐々木 彩佳)

また米国ハワイ州・パールハーバーにある戦艦ミズーリ号記念館との提携も、遠い地域に住む人々へ特攻隊を伝える取り組みの一つだ。ミズーリ号は、沖縄戦で日本軍による特攻攻撃を受けた。この時、船の甲板に投げ出された特攻隊員の遺体は、米軍兵士たちによって手厚く葬られたという。戦艦ミズーリ号記念館では知覧特攻平和会館から貸し出された遺書や手紙が展示されており、また平和会館にもミズーリ号に関する展示コーナーが設けられている。現在両館は姉妹館提携を結んでおり、共に平和への取り組みを進めている。[ⅶ]

戦争関連の施設において、攻撃を受けた側の視点を取り入れることは重要だ。戦艦ミズーリ号記念館への資料の提供を通じ、遠くハワイの人々にも、日本の特攻作戦について、また特攻隊について伝えるきっかけ作りを行っている。

戦艦ミズーリ号記念館 展示コーナー(提供:羽場 恵理子さん)
戦艦ミズーリ号記念館 展示コーナー(提供:羽場 恵理子さん)

遠い地域に住む人々や若い人々が、特攻隊に関心を持っていないわけではない。まず知覧特攻平和会館について知ってもらい、いずれは来館して更に理解を深めてもらうため、工夫の日々は続く。

埼玉から鹿児島へ 学芸員としての想い

羽場さんの出身地は、埼玉県だ。小さい頃から日本の歴史、特に近代史に興味があった羽場さんは、史学科のある大学に進み、やがて学芸員を志すようになった。東京の自治体で類似する職務に就いていたこともあるが、やはり学芸員になる夢を諦めきれなかった。そんな羽場さんに、大学時代の恩師が声を掛ける。「遠いところなんだけど、鹿児島にそういう(学芸員ができる)ところがあるから、挑戦してみたらどうかな」。

場所は遠くとも、学び、伝えることに貢献するため、羽場さんは知覧特攻平和会館で学芸員として働くようになった。

知覧特攻平和会館 学芸員・羽場 恵理子さん(撮影:佐々木 彩佳)
知覧特攻平和会館 学芸員・羽場 恵理子さん(撮影:佐々木 彩佳)

羽場さんは20代、もちろん戦争を体験していない世代だ。だからこそ学芸員として、知覧特攻平和会館の職員として、特攻隊について知ってもらうきっかけを作ることが一番だと考えている。「特攻隊員の生きたかけがえのない時間に書かれた遺書を見たい、知りたいという来館のきっかけを作っていくためにも、戦争を知らないとか関係なく、平和会館の職員として事業など色々なことをやっていきたいと思います」。羽場さんは力強く言う。

元々は大正から昭和初期を専門として学んでいたという羽場さんは、知覧に来てから特攻隊について学ぶようになった。書籍だけでなく実際の遺品などに触れることによって、意識が変わるのを感じたそうだ。「教科書や参考書籍を読めば大体の概要や枠組みは分かるけれども、さらに一歩踏みこんだところ、遺品や特攻隊員を知ることができるものには知覧に来てから出会えたので、それがより一層、一人ひとりを知ってもらいたいという意識に繋がったのかなと思います」と語った。

実物に触れることの力を、羽場さんは誰よりも感じている。その上で、実物に触れることのできない場所においても、特攻隊について深く知る機会はあると話す。「物自体にはここに来ないと出会えないわけですけど、デジタルやネットがすごく普及していく中で、色々な場所を知ったり検索したりすることが前の時代よりは発達しているので、平和会館を知ってもらうきっかけはあります。こちらから提供して受け取ってもらったり、平和会館があるんだということは関東などにおいても知ってほしいなと思います」。

「もの」で伝える 保存への取り組み

インターネットやデジタル技術の発展により、戦争伝承の幅は拡大している。

取材前、私が関心を持っていたことの一つに、「デジタルアーカイブ」があった。遺品や資料をデータとして保存し、必要に応じて公開するデジタルアーカイブ化の取り組みは、全国に広がっている。戦争体験者が減少していく現代において、過去の出来事をリアルな形で伝えるために、デジタルアーカイブは有効なツールだ。例えば2010年にはナガサキ・アーカイブ[ⅷ]が、翌年2011年にはヒロシマ・アーカイブ[ⅸ]が、それぞれ原爆の記録を保存し、語り継いでいくことを目的として制作されている。また知覧特攻平和会館のオンラインミュージアムにおいても、デジタルアーカイブとして保存されている遺書や手紙を幾つか見ることができる。やはり戦争関連データのデジタル化には、力を入れているのだろうか。

羽場さんによると、現時点では全ての遺品や資料をインターネット上に公開する段階にはないという。「デジタルアーカイブなどはこれから先考えていかなくてはならない要素になると思うんですけれども、平和会館は特攻隊員の方々が遺品として残していった『ものが語る力』を大切にしています。そしてそれを活かし、平和の有難さ、戦争の虚しさ、そして悲惨さなどを考えてもらうきっかけを提供したいと考えています」と羽場さんは話す。デジタルアーカイブは後世にデータを残す有効な手段ではあるが、やはり実物がもたらす力は大きい。現時点では、未だ「ものが語る力」を活かす段階だと考えているそうだ。

それでは、羽場さんたちが最も重視している「もの」を後世に伝えていくためには、どのような工夫が為されているのだろうか。

知覧特攻平和会館では、保存活動の一環として遺品の状態を調べる作業を数年前に開始し、今も継続しているという。遺品や資料の中には、紙の状態が悪く裂けてしまったり、布の状態が変化してしまったりしているものもある。今ある遺品がどのような状態であるのかを調べ、それに対してどのように対処できるのか、専門家からアドバイスを貰いつつ検証していく。「戦時中のものなので、どのように残していくかということはまだ研究段階にあります。それを解明していくことによって、もっと先の未来に特攻隊員が残したものを語り継ぐ、後の世代に残していくということに、活動として重点を置いています」と羽場さんは話した。

いつでもどこでも知覧へ −「オンラインミュージアム」の試み

羽場さん自身の経験も含め、知覧特攻平和会館では一貫して「もの」との出会いを重視していることがわかった。しかし、実際に平和会館へ足を運んでもらうことが最善の道ではあっても、様々な事情でそれが叶わない人々もいる。そこで取り組まれているのが、「オンラインミュージアム」を活用したアプローチだ。

知覧特攻平和会館では、2021年4月、時代に即したレイアウトやコンテンツを取り入れるために公式ホームページをリニューアルした。同時に、コロナ禍で知覧に来ることのできない人々にも特攻隊への理解を深めてもらうため、オンラインミュージアム[ⅹ]を開設した。

オンラインミュージアムとは、ホームページ上で館内の紹介や学芸員の解説を提供し、誰でも見ることができるよう公開するコンテンツである。他の博物館ではまだあまり行われていない取り組みであるらしい。ただ資料を並べるだけでなく、実際に学芸員が説明する様子を見ることができる点、またGoogleマップのストリートビューを使用し、館内や館外の展示場をオンライン上で廻ることのできる点などが魅力だ。

知覧特攻平和会館 オンラインミュージアム[ⅹ]
知覧特攻平和会館 オンラインミュージアム[ⅹ]
ホームページの刷新に携わった学芸員たちは、館内にどのような資料があるのか人々に知ってもらうための入り口として、オンラインミュージアムに載せる動画を制作した。また特攻をよく知らない人々にも関心を持ってもらうため、文章作りなどにもこだわったという。

現在も掲載する内容は拡大しており、2022年8月にも戦跡に関するコンテンツが追加された。動画は撮影や編集が大規模であり、外部の業者に委託する必要があるため頻繁には更新できていないものの、少しずつ改良を重ねている。

「どういうものがあるのか、事前の知識をオンラインミュージアムで吸収することができるのでより参考になると思いますし、何より行動が制限されていても『いつか来たい』という気持ちが芽生えるんじゃないかと。『オンラインミュージアムを見て来ました』という方もいらっしゃいますし、興味関心の一つのきっかけとしてオンラインミュージアムは機能しているのではないかと思います」と羽場さんは話す。

知覧特攻平和会館では中高生向けの事前学習資料も提供しているが、それと人が説明するのとでは子供たちの理解度も異なるため、修学旅行や課外学習前の資料としてオンラインミュージアムを使う学校も一定数ある。ただオンラインミュージアムの存在を「知らなかった」と言われることも多く、まだまだ認知度が低いことが課題だ。

自ら話す「英語版」オンラインミュージアム

新型コロナウイルス流行以前、知覧特攻平和会館には、多くの外国人客も来館していた。そのため知覧特攻平和会館のホームページでは、英語版のオンラインミュージアムも公開している。また、特攻隊関連の資料や隊員たちが遺した手紙に細かくフォーカスした「企画展示室」では、全ての展示物に英訳文がついている。

知覧特攻平和会館 オンラインミュージアム 学芸員による展示解説コーナー[ⅺ] 上:日本語版 下:英語版 (日本語版では展示室の紹介から始まっているが、英語版では知覧特攻平和会館や特攻隊に関する基礎的な情報の説明から始まっている)
知覧特攻平和会館 オンラインミュージアム 学芸員による展示解説コーナー[ⅺ] 上:日本語版 下:英語版
(日本語版では展示室の紹介から始まっているが、英語版では知覧特攻平和会館や特攻隊に関する基礎的な情報の説明から始まっている)
興味深いのは、英語版と日本版では動画の内容が違うという点だ。日本語で作成した動画に英語の字幕をつけてそのまま流すのではなく、伝える意思を持って学芸員自ら英語で話すことにより、外国の人に理解を深めてもらう目的があるという。

日本の人々は太平洋戦争という歴史やその背景を教科書で当たり前に学ぶが、外国で起きた戦争について深くは知らない。同様に外国の人々も、日本の歴史を知らない、あるいは学び始めたばかりということが多いようだ。そのため、特攻作戦が行われた理由や特攻隊員の心情などを最初に説明しつつ、千人針[ⅻ]や日の丸の旗といった実物を紹介し、なぜそれが贈られたかなど、詳細を解説していく。

学芸員たちには英語の経験がある訳ではない。上手く表現できるのか、不安はあった。しかし英会話の先生に助言を仰ぎつつ、「どのような表現でどのようなことを伝えたいのか」をきちんと理解してから、各々が英語で話した。

日本語よりも英語のほうが堪能な人(英語のパンフレットを求める人など)が来館した際は、この英語版オンラインミュージアムや英訳パネルを案内するようにしているそうだ。そのような人々からは、「教えてくれてありがとう」といった声掛けがあるという。

「コロナ禍で色々な博物館の来館者が減少する中で、オンラインミュージアムというコンテンツがあることによって、来館できなくても学んでもらうことができるし、いつか来館するときのきっかけとして使ってもらうことができます。他の博物館の方が関心を持ってくれることもあり、どのように活用しているのか、今後どのようなコンテンツを増やしていくべきか、博物館の視点からも考えていきたいと思っています」と羽場さんは語った。

特攻隊伝承にかける想い

取材の終わりに、羽場さんが特攻隊伝承にかける思いについて伺った。「一人ひとり、それぞれ散っていく前には、かけがえのない存在として生きた人生があったということを知ってもらいたいと思っています。ただ特攻隊員という括りだけではなくて、どういう人生を歩んできて知覧から出撃したのか知ってもらえるように、館内の企画展や知覧以外のところ(東京都の平和祈念展示資料館・広島県の大和ミュージアムなど)で交流展を開いたりして、色々な方に特攻隊員と、その先の特攻隊員の人生を知ってもらえるよう取り組んでいけたらと思います」。

知覧特攻平和会館では、沖縄戦の陸軍特攻隊員1036名を中心に扱っている。羽場さんをはじめとする学芸員の方々は彼らについて、「知覧から出撃した」というただ一文で終わらせるのではなく、一人ひとりの人生を紹介するような展示を理想としている。その想いに基づき、彼らが「このような思いを持って出撃した」と伝わるような展示パネルや企画展の構図を考えるようにしているそうだ。

遺書の活字化展示(提供:羽場 恵理子さん)
遺書の活字化展示(提供:羽場 恵理子さん)
遺品室 エピソード紹介パネル(提供:羽場 恵理子さん)
遺品室 エピソード紹介パネル(提供:羽場 恵理子さん)

「『風化させない、美化しない』『特攻の史実をありのままに正しく伝える』。これからもこの軸は必ず持って運営していきます」。知覧特攻平和会館の展望について、羽場さんが語った言葉だ。

場所や時代に関係なく、紡いできたものを大切に、時には更新しながら、後世に語り継ぐように残していく。特攻の街・知覧で生きるが故に出来ることを、羽場さんたち学芸員の方々は探し続けている。

 

終章

さて、私がこのルポを執筆したことによって何かが変わったのかと言われると、結論から言えば自信がない。誰かがこの文章を読んでくれたとして、ほんの少しでも何かを受け取ってくれたとして、戦争伝承を巡る状況が好転するとは思わない。でも、たとえそうだとしても、遠い場所や遠い時代に特攻隊を語り継ぐ伝承者としての一端を、私も担うことができているのだと信じたい。

今回の取材先に共通していたのは、本作品のテーマでもある「伝えたい」と言う想いだった。亡くなった特攻隊員たちに寄り添う気持ちを伝えたい太田さん、戦争が遠い過去のものではないのだと若者に伝えたい汐見さん、そして特攻隊員たち一人ひとりにそれぞれの人生があったのだと伝えたい羽場さん。特攻隊の出撃地から遠く離れた地域に住む人々や、戦争体験者がほとんどいなくなってしまった現代を生きる若者には、特攻隊を身近に感じる機会は少ないかもしれない。だからこそ伝承者たちは、場所や時代に関係なく人々に「知りたい」と思ってもらえるようなきっかけ作りに注力している。特攻隊を伝えるには、伝承者の「伝えたい」と人々の「知りたい」が合致することが大事なのだ。

私が住む東京からは、特攻隊が飛び立った場所を見ることはできない。しかしどこにいても、戦争について、特攻隊について、その伝承について、思いを巡らすことはできる。

少なくとも私は、考えることをやめたくないと思った。

 

注釈

[ⅰ] 知覧特攻平和会館 ホームページ、『「特攻」を知る』

https://www.chiran-tokkou.jp/summary.html

[ⅱ] 平和祈念交流展 ホームページ、「息子として、兄として、父として − 特攻隊員が遺した言葉 知覧特攻平和会館 所蔵資料展」

https://www.heiwakinen.go.jp/kikaku/20220331-1200/

[ⅲ] 資料「特攻平和観音と世田谷山観音寺」

[ⅳ] 汐見、2016年、90頁。

[ⅴ] PR TIMES「バズってから1年で19.1万部突破、シリーズ累計30万部突破!『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』」、2021年7月15日

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001374.000000607.html

[ⅵ] 野いちご ホームページ、「2016年7月発売のスターツ出版文庫」

https://www.no-ichigo.jp/bookstore/starts/201607#10414

[ⅶ] 知覧特攻平和会館 ホームページ、「交流のある博物館」

https://www.chiran-tokkou.jp/alternating.html

[ⅷ] ナガサキ・アーカイブ

https://n.mapping.jp/index_jp.html

[ⅸ] ヒロシマ・アーカイブ

https://hiroshima.mapping.jp/concept_jp.html

[ⅹ] 知覧特攻平和会館 ホームページ、「オンラインミュージアム」

https://www.chiran-tokkou.jp/museum_top.html

[ⅺ] 知覧特攻平和会館 ホームページ「学芸員による展示解説コーナー」

https://www.chiran-tokkou.jp/exhibition_commentary.html

[ⅻ] 千人の女性が一針ずつ縫って結び目をこしらえた白木綿の布。これを肌につけて戦争に赴けば、戦苦を免れ無事に帰還することができるという俗信から発生した風習。

(ジャパンナレッジLib「日本大百科全書」より引用)

 

参考文献

・平和祈念展示資料館 ホームページ

https://www.heiwakinen.go.jp

・世田谷山観音寺 ホームページ

http://www.setagayakannon.com/

・財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会・特攻平和観音奉賛会、資料『特攻平和観音と世田谷山観音寺』(太田兼照さん提供)※公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会 会報第59号 4–7頁(2004年5月)に掲載された記事「特攻観音と世田谷山観音寺」を資料として再編成したものを、太田さんにご提供いただきました。

・汐見夏衛『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』、スターツ出版文庫、2016年。

・知覧特攻平和会館 ホームページ

https://www.chiran-tokkou.jp

・パールハーバー(オアフ島真珠湾)戦艦ミズーリ記念館 ホームページ

https://ussmissouri.org/jp/

(URLの最終アクセスは全て2023年1月16日)

このルポルタージュは瀬川至朗ゼミの2022年度卒業作品として制作されました。