ルポ 混迷するミャンマー ある日本人男性が見たクーデター
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2021年2月1日、ミャンマーでクーデターが起こった。当初は平和的な抗議デモが行われていたが、国軍はこれを武力で鎮圧した。人権団体AAPPによれば、2022年1月31日現在で1400人以上の市民が国軍によって殺害されている。「混迷するミャンマー」。その実情を探るため筆者は2021年2月から1年間、在日ミャンマー人や日本人関係者の取材を行った。(取材・文・写真=鳥尾祐太)
〇トップの写真はミャンマー料理研究家の保芦宏亮。右手に持っているのは、抗議の意を示すために叩き続けた鉄製の皿=2021年10月18日撮影
〇取材対象者の敬称は原則として省略した。
〇年齢は卒業制作提出日(2022年1月13日現在)のものである。
〇特に断りのない限り、写真の撮影者は筆者である。
〇原則として国名は「ミャンマー」と表記している。「ビルマ」という呼称は、旧国名か民族名としてのビルマ族を指す時のみ用いた。1989年6月に、当時の軍事政権が国名を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更した経緯などを踏まえ、民主派を中心に「ビルマ」の呼称を根強く使ってきた人は多い。
他方で、昨今は「ミャンマー」という呼び名が広く定着しており、在日ミャンマー人の団体名は筆者が知る限り「ミャンマー」の方が広く用いられている。そのため、本稿では以上のような扱いをすることとした。なお、「ミャンマー」か「ビルマ」かを巡る詳しい議論は、根本敬・上智大学教授(ビルマ近現代史)著『物語 ビルマの歴史(中公新書)』などを参照されたい。
はじめに
2021年11月28日、都内某所の、とあるアパートの一室に私はいた。机に置かれたタブレット端末の画面に映った4人の若者たちを、木々の間から日光が照りつける。東南アジア特有の、けたたましいクラクションの音は聞こえてこない。あるのは静寂だった。
彼らがいるのは、ミャンマー東部・カヤー州の山中だ。タイ北西部メーホンソーン県と接するこの地域では、古くから少数民族武装組織と国軍の間で紛争が行われてきた[久保,2014]。
2021年2月1日に起きたクーデターの後、自由と希望を奪われた若者たちの一部は、都市部から少数民族武装組織の拠点がある地方の山中に移動し、武器を取るようになっていった。彼らもその一員である。
「何と言って家を出たのでしょうか?ご両親とは連絡を取れているのですか?」と私が問うと、看護大学の学生だったレー(仮名・女性)は、画面の中で虚ろな笑みを浮かべ、こう答えた。
「両親には何も言わず家を出て、ここにやってきました。もし自分から連絡を取ったら、軍が家族に目を付けるかもしれません。だから、家族とはずっと話していないんです」。
聞けば、毎日のように戦闘が起きていて昨日も4人の仲間が死んでしまったという。インタビュー中、彼女は何度も目に涙を浮かべていた。
「自分たちの場所で起きていることを、日本の人にも広く伝えてほしい」と、最後に訴えた。
その日、自宅に帰った私は、彼女のメッセージを幾度となく思い返していた。どうすれば、日本の人がミャンマーの現状に関心を持つだろうか。どのように、私たちはミャンマーと関わることができるのだろうか。それは2月1日のクーデター以降、ずっと考え続けてきたことだった。
2019年8月、私はミャンマーに11日間の一人旅に出た。きっかけは、所属する学生団体で前年12月にミャンマーの少数民族ロヒンギャをテーマにした写真展に携わったことだった。
彼らは「不法移民」として扱われ、長年差別の対象となってきた。2017年8月に起きた、国軍による「大虐殺」では6700人が殺害され、70万人以上が難民としてバングラデシュに逃れた[中坪,2019,p.209-210]。
こうした実態を写真展で出会ったフォトグラファー・新畑克也から聞くうちに、「自分もこの目で、彼らが置かれた状況を見てみたい」と思うようになった。
西部ラカイン州では、ロヒンギャ住民が街の一区画に強制隔離されている実態や、封鎖され廃墟となったモスクを目の当たりにした。他方で、「加害者」として扱われることの多い仏教徒の少数民族・ラカイン人もまた内戦[1]や貧困に苦しんでいることも知った。
この旅を経て、私のミャンマーへの関心は高まり、2020年9月から2021年3月まで、ミャンマー在住のジャーナリスト・北角裕樹の下でインターンシップに参加することにした。
この計画は新型コロナウイルス感染症の蔓延により中止となったが、クーデターが起きたその日、私はミャンマーにいるはずだった。このような経緯を持つ私にとって、ミャンマーのことを気にかけるのは自然なことだった。しかし、多くの人はそのような接点を持ってないだろう。
だから、私は卒業制作としてミャンマーに関するルポルタージュを執筆することにした。そして、取材を進める中で一人の日本人男性に出会い、彼の語りを中心とした物語を紡ごうと考えた。
かつて自分が、写真家の新畑に引き寄せられミャンマーに関心を持っていったように、日本人である「彼」の話を知れば興味を持ってくれる人がいるかもしれないと思ったのだ。これはミャンマーの人々と声を上げ続ける、1人の日本人男性のドキュメントである。
第1章 最も幸せで、悲しい日
2月1日
「仲間たちと楽しく過ごしていた時間が奪われてしまった。とにかく、その時間を取り戻したいんだ」。10月26日、東京・池袋駅前にあるコーヒーチェーン店で、ミャンマー料理研究家の保芦宏亮(ほあし・ひろすけ)(51)はそう語った。肩までかかった長髪と日焼けした肌は、どこかサーファーを想起させる。
保芦はクーデターが起きたミャンマーで、現地の若者と一緒に抗議デモに参加していた数少ない日本人の一人だ。2012年にバックパッカーとして訪れたミャンマーに魅せられ、2015年からミャンマーカレー「チェッターヒン」のレトルト商品の開発に着手。2018年に販売を開始してからは、「ミャンマー料理研究家」として日本とミャンマーを行き来する生活を送ってきた。
そして、クーデターが起きた2021年2月1日から4月23日までをミャンマーの最大都市・ヤンゴンで過ごした。
保芦とは、2021年7月に日本映画大学(神奈川県川崎市)で開催されたミャンマー関連のシンポジウムで出会った。共通の友人の話などを10分程交わし、連絡先を交換した。
その後、何度か話を聞いたり、ミャンマーへの思いを綴ったSNSの投稿を見るうちに、「なぜ、これほどミャンマーのために活動をしているのか?」「彼はミャンマーで何を見てきたのか?」と思うようになり、取材を申し込むことにした。
2021年2月1日早朝、保芦は自室を出てコンドミニアムの屋上に向かった。そこから6、700m先に見える黄金の仏塔・シュエダゴンパゴダに向かって、日の出前にお参りをするのが日課だった。ちょうど屋上に出たタイミングで、スマートフォンが鳴る。
電話の相手は、東京都内に住む在日ミャンマー人のウィンチョウ夫妻だった。約10年前にJR高田馬場駅前(新宿区)にあるミャンマー料理屋『ノングインレイ』で隣同士になり、そこから付き合いが始まったという。
今年、ウィンチョウ夫妻はヤンゴンの中心地から東北に約10㎞離れたダゴンセイカンという地区のお寺で、貧しい子どもたちのためにカレーを振舞おうと考えていた。熱心な上座仏教徒が多いこの国では、そのような文化がある。
2月1日に開かれる連邦議会での、スーチー政権の門出を祝う気持ちも込めていた。しかし、新型コロナウイルスの影響で渡航を断念せざるを得なかったため、ミャンマーに滞在していた保芦に依頼をしていた。
「カレーの件だなと思って電話に出たら、声の様子がおかしくてね。ウィンチョウさんに『大丈夫ですか』と言われて、僕は『大丈夫ですよ、これからダゴンセイカンに行きますよ』って言ったんだ。そしたら『今日は出ないで』と言われたんだけど、その時は何が起こっているか分からなかった」。
夫のウィンチョウはヤンゴン工科大学を、妻のマティダはヤンゴン大学を卒業した「エリート」だった(東京工業大学と東京大学を卒業した夫婦と言えば分かりやすいだろうか)。それに加え、長年民主化運動に携わっていたこともあり、連邦議会議員の友人がいた。深夜3時ごろ、その議員からクーデターの一報が直接届いたという。そのため、いち早く保芦に情報を届けることが出来た。
ウィンチョウが、「スーチー母が軍に連れていかれた」と言ったのを聞き、保芦もただ事ではないと感じたという(ミャンマー人の中には、アウンサスーチーに敬意を表し、「母」と呼ぶ人が少なくない)。
ただ、具体的な状況は呑み込めず、その恐ろしさを切迫したものとして捉えることは出来なかった。結局、ウィンチョウの反対を押し切って、通訳と保芦に密着していた日本人映像作家と共にタクシーでダゴンセイカンへと向かった。
しかし、その道中で彼らのスマートフォンの電波が突如として切れてしまった。1分も絶たないうちに保芦のスマートフォンも使えなくなり、不安感に襲われた。
車窓から外を見渡すと、道を歩く人たちが電波を拾おうとしてスマートフォンを上に掲げている様子が見えたという。国軍がインターネットを遮断したのが原因だった。
無事、ダゴンセイカンのお寺に到着したが、村の人たちは保芦達が来るとは思っていなかったようで、人も食材も集まっていなかった。電話が使えないので家を直接訪ねて人を集め、急いで準備を進めた。
なんとかカレーを完成させ、お坊さんに「お布施」をした後、子供たちにも振る舞うことが出来た。今日は危険だから出てはいけない、と親に言われたのだろうか。予定していた200人が来ることはなかった。それでも、約30人が集まってくれた。
子どもたちに対するメッセージを求められた保芦は、ミャンマーカレー『チェッターヒン』の開発を成功させた経験を踏まえ、「とにかく自分の好きな事を徹底的にやって欲しい。やり続けていれば必ず夢は叶う」と伝えようとした。
しかし、話しながら、クーデターによって子供たちは自由に夢を追いかけることが出来なくなってしまったことに気が付いた。そして、次第に言葉が詰まっていったという。
「子供たちが僕のカレーを食べてくれたその日ほど、幸せを感じた日はなかった。だけど、それと同時に、こんなに悲しい時間を迎えたことはなかった。2月1日は、ミャンマーに来てから最も幸せだった日と、それから、その幸せが奪われた最も悲しい日になってしまったね」。
当時を思い起こしながら話す保芦の声は少し震えていた。話終えると、ポケットから黒いハンカチを取り出し、サッと鼻のあたりを拭い去った。
2020年総選挙
2020年11月8日、ミャンマーでは5年ぶりに総選挙が実施された。選挙前はアウンサンスーチー率いるNLD(国民民主連盟)が議席数を減らすだろう、と囁かれていた[朝日新聞,2020a]。
2015年に圧倒的支持を得て当選したNLDだったが、目標として掲げていた憲法改正の見通しは立たず、少数民族武装勢力との和平でも成果を上げることは出来なかったからだ。また中央集権的な態度に、少数民族が多く住む地方部では不信感が高まっていた[朝日新聞,2019b]。
しかし、蓋を開けてみればNLDは2015年よりも6議席多い、396議席を獲得した。改選議席数の8割を超え、憲法の規定で軍人枠が4分の1を占める国会での単独過半数を制した。
一方で、国軍系の最大野党USDP(連邦団結発展党)の議席数は前回よりも8議席少ない、33議席に留まった[朝日新聞,2020b]。しかも、その内の24議席が東部に位置するシャン州に集中している[The Asia Foundation,2020]。
シャン州は東南アジアの「ゴールデントライアングル」に位置し、麻薬ビジネスの一大拠点として知られている[朝日新聞Globe,2018]。山間部などでは現在も一部の地元武装勢力と国際的な犯罪組織が跋扈しており、選挙の際、USDPを支持するように彼らが圧力を掛けてきたと指摘されている[Frontier Myanmar,2020]。
つまり、今回の選挙において国軍系のUSDPを本当に支持していた国民はほんの一握りしかいなかったと考えるのが妥当だろう。NLDの地滑り的な勝利は、国軍に対して彼らが「不人気者」であるという現実を突き付けた。
図1.『ミャンマー連邦議会 政党別議席数(2015年、2020年)』。データは[中西・長田,2016]、[長田,2020]より。
■国軍指名枠:国会の定数664議席のうち、4分の1を軍人議席が占めると憲法で規定されている。そのため166議席が固定枠となっている[朝日新聞,2020b]。
■選挙中止区:2015年の総選挙では、シャン州における内戦の影響により、7つの選挙区で中止[中西・長田,2016]。2020年の総選挙でも、ラカイン州やシャン州、カチン州などの22選挙区で治安の悪化を理由に中止[Global News Asia,2020]。
国軍の反論
しかし、国軍はこの結果に納得しなかった。1月26日に会見を行い、「有権者が重複して登録されるなど、約860万人分の不正があった」と主張した。クーデターの可能性について問われた際、報道官は否定しなかった。27日にも、ミンアウンフライン国軍最高司令官が「法律を守らない人がいるなら、たとえ憲法でも廃止されるべきだ」と述べている[朝日新聞,2021c]。
これに対して国際社会もすかさず反応を示した。28日に国連のアントニオグ・テーレス事務総長が、翌29日には欧米諸国の外交団が声明を発表した[朝日新聞,2021c]。
こうした対応を受けてだろうか。国軍は30日に、「(27日のミンアウンフライン最高司令官の発言を)メディアなどが好きなように表現した」と主張。強気な姿勢を一歩後退させたかのように見えた[朝日新聞,2021c]。
一連の動きに関して、中西嘉宏・京都大准教授(ミャンマー政治研究)は朝日新聞の取材に以下の見解を述べている。
「1期目のNLD政権では両者は決裂しないよう距離を保っていたが、今回は国軍側が政権批判に大きく踏み込んだ。軍人議員が議会をボイコットするなど、さらに揺さぶりをかける可能性がある[朝日新聞,2021c]」。
選挙では惨敗したが、軍政時代に制定された2008年憲法は国軍に「絶対的な権力」を保障していた。前述の通り、連邦議会の議席のうち4分の1は国軍が指名権を保有する。それに加え、最高司令官が国防大臣・内務大臣・国境大臣の任命権を握っている。
さらに、この歪な憲法を改正するためには、総議員の75%を上回る賛成が必要となっている[根本,2014,p.383-386]。軍人議員が「謀反」を起こさない限り、条件が満たされる可能性は無いに等しい。
そのため、有識者であっても「クーデターまでは起こさないだろう」と考えていたのだろう。だが、2月1日、空が白むころ。首都ネピドーに「コツ…コツ…」と軍靴の鈍い音が響き始めた。それは、人々を長く、長く覆い続ける「悪夢」の始まりだった。
第2章 笑顔と恐怖
デモへの参加
クーデターから数日間、ミャンマーの人々はボイコットやSNSで抗議の意を示していた。午後8時以降は、悪霊払いの効果があると信じられている「鍋叩き」を行っていた[永杉,2021,p.42-46]。逆に言えば、大規模なデモは起きていなかった。
1988年の民主化運動では1000人以上が、2007年の「サフラン革命」でも数十人が国軍に殺害されている[根本,2014,p.322;タンミンウー,2021,p.102]。こうした過去の記憶が、人々に慎重な姿勢を取らせていたのだろう。
しかし、2月6日、ヤンゴンの若者たちが街に繰り出し抗議活動の狼煙が上がった。8日になると、デモはヤンゴン市外にも広がっていった[永杉,2021,p.48]。
保芦も当初は他のミャンマー人同様、デモに参加するのを控えていた。情報がなかなか集まらない中で不安を感じていたという。ただ、友人がデモに参加すると言ってきたことで決心し、ミャンマーの「原宿」と言われるレーダンを友人と目指した。
タクシーに乗りこんだものの、道が人で塞がれ車がほとんど動けない状態になっていたため、結局お金だけ払って歩いて行くことにした。目的地に着くと友人の友達が7、8人集まっていた。
国内のインターネット回線は遮断されていたため、海外データローミングを利用して、情報交換をしていたという。当時はまだ、軍や警察も臨戦態勢を敷いていたわけではなかった。保芦は当時の雰囲気をこう振り返る。
「楽観的な気持ちにはなれなかったけれど。でも、ちょっと間違えたらお祭り気分になってしまうんじゃないかっていうぐらい、ものすごい熱気があった。楽しい場面じゃないんだけど、まだずいぶんと笑顔があったね」。
しかし、2月9日に首都ネピドーで警察官が水平射撃を行い、ミャトゥエカイン(当時19)が頭部に被弾。病院に搬送されたが、意識不明のまま19日に帰らぬ人となった[永杉,2021,p.50]。
これ以降、各地で軍・警察による発砲が相次ぎ、死者数は加速度的に増えていった。26日には、日本人ジャーナリストの北角裕樹がデモを取材中に当局によって拘束された。
5、6時間で解放されたものの、外国人だからといって安全だという状況ではなくなっていった。北角と友人関係にあった保芦も、これを機に気が引き締まったという。午後8時以降に行われていた鍋叩きも、だんだんと鳴りを潜めていった。
「人が殺されたり、近所の人か連れていかれてから、皆の鍋を叩く音もだんだん弱くなっていったね。自分も、もし鍋を叩いている姿を見られてたら…という気持ちが強くなっていった」。
「助けてくれ」
3月10日。ジムでトレーニング中のミャンマー人夫婦を、保芦は一人で待っていた。その友人夫婦とはいつも一緒に行動をしていて、ジムの時間だけ別々に過ごしていたという。
その時、スマートフォンに一通のメッセージが届いた。「助けてくれ」。送ってきたのは、ミャンマーで動物の調教師として働くイタリア人の友人だった。
彼が住んでいたサンチャウン地区はクーデターに抗議する人々の拠点となっていた[The WashingtonPost,2021]。恐らく、そのせいだろう。兵士がサンチャウン地区で銃を乱射し、保芦の友人も巻き込まれてしまった。
ちょうどその時、友人のミャンマー人夫婦が保芦を迎えに来た。伝えたところで助けに行くとは言いださないだろうと思い、夫婦にメッセージを見せたところ、予想に反し、助けに行こうと言われてしまった。
「俺もこの場面で無理とは言えなくて。参ったな、こうやって人は死んでいくんだなと思って」。そのまま車でサンチャウン地区に向かった。到着すると、一帯がバリケードで囲まれていて、その傍には軍用車両が停車していた。兵士が銃を持って列をなし、あたりを巡回していた。
なんとか車をバリケードの近くに止め、友人を救出することが出来たが、何が起きてもおかしくなかった。「友達が白人だったから、打たれずに出てこられたと思うんだけど」と保芦は回想する。
3月になると国軍の行為は卑劣さを極めていった。「国軍記念日」の3月27日には、100人以上の市民が殺害された[北川,2021,p.42]。
第二の都市マンダレーではアヤコウ(当時40)が、銃撃を受けた後、生きたまま燃えているタイヤに放り込まれ殺害されるという出来事まで発生した。現地メディアのミャンマー・ナウによると、炎の中で「お母さん、助けて」と叫びながら亡くなったという[Myanmar now,2021]。
もはや、自分たちではどうすることもできない、平和的手段で解決することは出来ない。そうしたレベルまでミャンマーの人々は追い詰められていった。
第3章 国際社会の対応と国軍
保護する責任
3月20日、東京・渋谷は曇天だった。天気予報によれば、翌日は雨が降るという。私は青山通りを歩き、在日ミャンマー人が「48時間ハンガーストライキ」を行っているという国連大学前を目指した。通り過ぎる人々に、どことなくハイソな雰囲気を感じたのは先入観ゆえだろうか。
目的地に着くと、お揃いの白いパーカーを着た男女8名が「ハンガーストライキ決行」と書かれた横断幕の前で座り込みを行っていた。腰をおろし、ハンガーストライキを行うに至った経緯や思いを、1人の男性に聞く。その途中、彼は「R2Pって知ってますか?」と言った。
R2Pとは、responsibility to protect(保護する責任)の略称で、「国家主権は人々を保護する責任を伴い、国家がその責任を果たせないときには、国際社会がその責任を代わって果たさなければならない、そして、国際社会の保護する責任は不干渉原則に優先する[川西,2007,p.13]」という考え方のことだ。
私がこの単語を初めて耳にしたのは2月2日、クーデターの翌日のことだった。群馬県館林市を訪ね、在日ロヒンギャのアウンティンらに話を聞きに行った時、彼が教えてくれた。その後ミャンマーの情勢が悪化した3月頃になるとデモの現場でも「R2P」と書かれたプラカードを目にするようになった。
「ええ、R2Pは知ってます。でも、これは果たされていないですよね」と投げかけると、「そう。日本も口だけ、手紙だけ。でも、それじゃすまない。私たちの国民を守って欲しい。国際社会、国連、我々のミャンマーは1つの町にあるようなもの。『知らない』とか『自分とは関係ない』とか言わないで欲しい」と訴えた。
当時、こうした考えを多くのミャンマー人が抱いていた。著名な歴史家のタンミンウーは「しばらくのあいだ、ビルマの多くの人々は、世界が新たな独裁政権から自分たちを救ってくれると本気で信じていた[タンミンウー,2021,p.334]」と述べている。
だが、こうした彼らの期待とは裏腹に国際社会が積極的な介入を行うことはなかった。たしかに、国連安保理は3月10日に、抗議デモの参加者に対する暴力を非難する声明を出している。しかし、その際も中国やロシアが難色を示したことから、当初案にあったクーデターそのものへの非難や追加措置の可能性についての言及は削除された[朝日新聞,2021f]。
現実と理想。彼らの口から「R2P」という言葉が発せられることは、次第に無くなっていった。
国軍という組織
クーデター以降、私は知り合った在日ミャンマー人とフェイスブックを交換することにしていた。インターネット=フェイスブックと言われるミャンマー社会において、必須の連絡手段となっているからだ。それに加え、情報の不確かさは付きまとうものの、現地の様子をいち早く伺うことができる。
4月上旬、ある在日ミャンマー人の方から1枚のPDFが送られてきた。「虐殺の証拠です。見て下さい」というメッセージが添えられていた。ファイルを開くと、脳みそが丸ごと取り出された状態の遺体、顔中血だらけの遺体の写真が何十枚もまとめられていた。
心臓の鼓動が急速に高まるのを感じ、すぐさまアプリを閉じた。それと同時に、これがミャンマーの人々が日々、直面している現実なのだと実感した。
しかしだ。そもそも、なぜミャンマー国軍は自国民を無慈悲に殺害することが出来るのだろうか。本来、軍隊とは自国民を守るための組織のはずだ。しかも、銃を向ければ国民の支持を失うのは明らかだ。それになのになぜ…。私には不思議でならなかった。だが文献を調べるうちに、その背景には構造的な要因があることが分かった。
以下は根本敬・上智大教授(ビルマ近現代史)がクーデター後に記した論考『危機のなかのミャンマー 機能しない仲裁外交から標的制裁へ』に基づく説明だ。根本は国軍による自国民の殺害を可能にしている要因は3つあるとしている。
1つ目は、国軍の敵が建国以来ずっと自国民であったこと。2つ目は、そもそも国軍の支持基盤が一般国民でないこと。3つ目は、国軍の経済圏が自己完結していることだ。
ミャンマーは、1824年から続いたイギリス植民地時代(第二次世界大戦中の、約三年間は日本軍が占領)を経て、1948年に「ビルマ連邦」として独立を果たした。しかし、平和と安定な時代がやってきたわけではなく、国軍は独立以降、絶えず戦闘を行ってきた。
重要なのは、交戦相手が原則、自国民だったという点だ。具体的には、各地の少数民族武装組織やビルマ共産党がその相手だった。唯一の例外は1949年末から1961年まで東北部に勢力を置いていた中華民国軍の残党であった。
また1962年にネウィン将軍が起こした第1回クーデター時に起きたヤンゴン大学の学生による抵抗運動と1988年に起きた民主化運動に関しても、国軍は武力を用いて鎮圧を行っている。
このように、「相手が武器を持っていようがいまいが、少数民族であろうがなかろうが、自国民を敵として殺害することに慣れてしまったのが現在のミャンマー国軍なの[根本、2021、p.54」」だ。
次に、国軍の支持基盤が一般国民でないことも重要な要因だ。1962年から始まったネウィンによる独裁体制下では、国軍と表裏一体のビルマ社会主義計画等(BSPP)が結党された。
同体制下で、BSPPの党員は百万単位でいたとされるが、実態は(半)強制的な動員によるものに過ぎなかった。1988年にネウィンがその座を降りると、それらの「支持者」は消えていった。
その後、旧軍政期と呼ばれる1988年から2011年にかけても、USDPの前身組織・連邦団結発展協会(USDA)が組織され、その会員数は2000万人(当時の人口の半分にあたる)に達したが、強制参加の公務員とその家族が主な構成員だった。このように、そもそも国軍は国民による支持によって統治を行ってきた歴史がなかったという事実には注目すべきだろう。
最後に、国軍独自の経済圏について触れて置く必要がある。国軍は1950年に国防協会(DSI)という小規模の企業群を構築した。その目的は、内戦に苦しむ組織を支えるための収入減の確保と、軍人家族に安価で生活必需品を供給することだった。
このDSIは1950年末までにコングロマリットに成長した。ネウィン政権下(1962-1988)では全ての企業が国営になったものの、旧軍政期の1990年代には再度民営化。それらは、国防省(=国軍)が設立した2つの持ち株会社の下に組み込まれ、国軍系複合企業体が形成された。
これに伴い、国軍と退役者を含む将校が膨大な額の株主配当金を得られるようになった。その合計は国防予算を上回る金額となっている。また、この収益は非課税かつ非公開であり、透明性は限りなく薄い。
このように、国軍は自らの経済圏を確立しており、例えクーデターの影響で国全体の経済が落ち込んでも、自らは生き残れる仕組みがあるのだ。
実はこの利権を守るために今回、国軍はクーデターを起こしたと指摘されている。彼らは、2020年総選挙において有権者名簿に不正があったにも関わらずNLDがその調査を怠ったと主張し、クーデターは憲法条項に則った「合法的なもの」としている[NHK、2021a]。
クーデター当日の2月1日、現地時間午前8時半(日本時間午前11時)ごろ、国軍系のMRTV(ミャンマーラジ オTV局)が一年間の緊急事態宣言が発出されたと報道。それに伴い、国軍出身のミンスエ副大統領が大統領代理に就任し、ミウアウンフライン国軍総司令官に立法・司法・行政の三権が移譲されることになったと伝えた[日本経済新聞、2021a]。
2008年に制定された現行憲法下では大統領が非常事態宣言を発出すれば国軍最高司令官に対して全権を最大二年間移譲できると定められており、それを用いた形だ[根本、2021、p.50―51]。
だが、日本を含む海外から派遣された選挙監視団は2020年総選挙が概ね公正に取り行われたとしており、国軍の主張は「いいがかり」に過ぎない[根本、2021、p.50―51]。
根本によれば、「真の理由は、アウンサンスーチー政権が文民統制(ソヴィリアン・コントロール)を強化し、国軍が政治に関与できる範囲を縮小し、最終的に政治から排除する意向を強く抱いていたことに対する国軍の根源的危機感があったため[根本、2021、p.50―51]」であった。
文民統制が進めば、これまで享受してきた様々な利権が失われる。それを何としてでも守りたいという思惑が国軍にはあったのだろう。さて、ここまで国軍がどうして自国民を殺害できるのか、そもそもなぜクーデターを起こしたかのかについて歴史的・制度的文脈から見てきた。
では一体、どのような教育が兵士1人1人に対して行われているのだろうか。クーデター後に国軍を離反した元将校らの証言を読み進めていくと、「洗脳」とも言える実態が見えてきた。
「洗脳」される兵士たち
「Most of the soldiers have been disconnected from the world, and for them the Tatmadaw is the only world.(ほとんどの兵士は世界から切り離されている。彼らにとってはタトマンドー(国軍)が唯一の世界なのです)」
「They see protesters as criminals because if someone disobeys or protests the military, they are criminal.(兵士たちにとって、軍隊に逆らったり、抗議したりする人は犯罪者。だから、デモ参加者を犯罪者と見なしている)」
これは、米・ニューヨークタイムズ紙の取材に答えた将校たちの言葉である[The New York Times,2021]。この報道によると、兵士は文字通り社会から切り離された生活を送っており、兵舎でもフェイスブック上でも、常に上官に監視されている[The New York Times,2021]。また、将校であっても海外留学の機会は少なく、外の考えに触れるチャンスは極めて乏しい[中西,2009,p.285]。
こうした環境下で教育を受ける中で兵士たちは、国軍こそが国家の親であり、逆らうものは自国民でも敵であるとのメンタリティーを内面化するようになる。
さらに、仮に軍がやっていることがおかしいと気が付いても簡単には逃げられない。多くの将校とその家族は軍の集合住宅に住んでおり、あらゆる行動が監視されているからだ。クーデター後は許可なしに15分以上外出することを、ほとんどの人が許されていなかった[The New York Times,2021]。
もし私が軍に「洗脳」され、家族が「人質」に取られていたら…。銃口を市民に向けることはないと言い切れるのか、正直自信がなくなってしまった。軍隊の本質をそこに見た気がした。
第4章 友人たちの拘束と帰国
日本育ちのミャンマー人
4月に入り、それまで行動を共にしていたミャンマー人夫妻が仕事の都合で、ヤンゴンから約370m北に位置する首都・ネピドーに移動した。それに伴い、保芦はもともと拠点にしていたコンドミニアムへと戻ることになった。
そこにも1人の友人が住んでいた。彼の名前はモンティンダン(37)。6歳の時に両親の仕事の都合でミャンマーから日本に移住した。高校卒業後は日本映画学校(現:日本映画大学)に進学し、映像制作について学んだ。
その後、映画業界を経て芸能プロダクションでマネージャー業に従事していたが、ミャンマーと日本の架け橋になりたいという思いから2018年に渡緬した。それ以来、日本とミャンマーを行き来しながら、映像制作などの仕事をしていた。
クーデター後は日本のメディアのために現地取材を行い、情報を発信していた[水谷,2021]。同じコンドミニアムに住んでいたこともあり、保芦は彼とよく語り合っていたという。「お互い熱くなってるし。死んでも闘いたいなんて言ってさ」。
しかし、4月12日頃にはモンティンダンの会社で働くスタッフが当局に拘束され、彼の事務所兼アパートにも捜査の手は及んだ。パソコンや機材も持っていかれてしまった。「自分もそろそろやばいです」と漏らしていたという。
4月16日、ネピドーに移動していた友人夫婦からヤンゴンに戻ってくるという連絡があった。そのまま保芦の住むコンドミニアムで落ちあい、久しぶりの再会を楽しんだ。モンティンダンもそこに加わった。
「ダンは10分位で、自分の部屋に帰ったんだ。でも、しばらくしたら、また部屋に来て。眼鏡と財布、それに携帯を忘れていたんだ。その様子を見て、すごく怯えてるような、焦っているような様子に見えた」。
この時、保芦は友人夫妻から忠告を受けている。彼の部屋にはアウンサンスーチーや抗議運動のポスターが貼ってあったからだ。保芦自身はコンドミニアムの従業員を信頼していたが、万が一のことを考え、ポスターを全て剥がし引き出しの中にしまった。そして、そのままコンドミニアムを後にし、友人夫婦の家へと向かった。
友人たちの拘束
その翌日のことだった。4月17日深夜、武装した軍人と警察官が保芦の住むコンドミニアムを強制捜査した。このコンドミニアムには、日本人外交官やJICAの職員もいた。
彼らは受付のミャンマー人スタッフ殴り、部屋を空けて「指名手配中のミャンマー人の捜索」を開始した[朝日新聞,2021g]。そのミャンマー人とはモンティンダンのことだった。
この日、彼はコンドミニアムにはいなかった。別のホテルに潜伏中だったからだ。しかし、捜査の手はそちらにも及んでいた。ホテルのフロントから連絡が来て、「軍があなたを追っています。裏口を空けておきますので、そこから逃げて下さい」と言われ慌てて外に出た所を、待ち構えていた兵士に拘束された。
ただ、当時保芦は彼が捕まったことを知らなかったそうだ。ミャンマーでは突如として人が拘束され、誰もその事実を知らないまま、刑務所に移送されることがある。今回もそのケースだった。
コンドミニアムが強制捜査されたことは友人達からの連絡で知った。この日、保芦はジャーナリストの北角に電話をかけた。その時のことを振り返り「印象的だったのは、一通り伝え終わったら、北角さんも『いやぁ、何の根拠もある話でもないんですけど、自分もそろそろやばいと思ってるんですよね。思ったときにはすぐ動かなきゃいけないんですよね』って笑いながら電話を切って」。
この推測は的中してしまった。4月18日、現地時間午後7時頃、北角は自宅兼事務所でミャンマーの少数民族問題に関するオンラインセミナーを視聴していた。すると突然、扉を「トントン」と叩く音が聞こえてきた。嫌な予感がしてミャンマー人の友人に電話をかけたが、彼が電話に応じることはなかった。
扉を開けると、「POLICE」という文字が目に飛び込んできた。厳しい口調で「黙れ」、「座れ」と言われ、されるがままだったという。外に連れ出された北角は、皆に気づいてもらえるように、と両手を挙げながらゆっくりと近隣住民に「私は捕まった」とアピールをした。
近所に住む女性はSNSを通じて私に、「自分が確認できた範囲では、2台の警察車両が来ていた。警察が彼を連れて行くのを見た」とその日の様子を伝えてくれた。保芦も北角と連絡がつかないことを不信に思っていたところ、彼の拘束をニュースで知ったという。
帰国
19日、保芦は友人が運転する車の後部座席に隠れ、コンドミニアムに戻った。ガードマンにバレないように駐車場から走って自分の部屋に向かった。
部屋が荒らされている形跡は無かったが、受付のスタッフに聞いたところ、パスポートの写しが当局に渡っていることが分かった。それに加えて、防犯カメラを見られてたことで、モンテインダンとの友人関係も把握されているようだった。
「帰りたくなかったけど、日本大使館に電話して、すぐ飛行機に乗りたいって言ったんだ」。出国日までは、ミャンマーで最も高級なチャトリウムホテルに泊まることにした。
このホテルのゼネラルマネージャーはかつて、東京にある保芦の家を訪ねてきたこともある友人だった。軍関係者も宿泊していたが、安全だと言われていたという。
そこで数日間を過ごし、23日午前11時30分ヤンゴン発-那覇経由-成田行きの全日空NH1944/NH1942便で帰国することになった[TRAICY,2021]。
「無事に出国できるかどうか、ものすごい不安だった。飛行場まではホテルが用意した黒色のエルグランド(日産の自動車)で行ったんだ。あと、撮影した写真や動画は手放したくなかったから、ダミーのスマホを二つ持っていった。写真や動画が入っているスマホとパソコンは、コーヒー豆をたくさん買って、その中に入れて。
ホテルが軍と繋がりがあったから、ホテルの車に乗っていれば検問もスルーできたんだ。だから俺も隠れたりしないで、後ろでとにかくドシっと座ってようと思って。怖かったけどね。それで、なんとか飛行場まで行って、降りて荷物を預けて。ダラン(密告者)的な人たちも中にいたけど、荷物入れたし、90%もう大丈夫だなっていう気持ちになったんだ」。
4月23日午後10時30分ごろ、保芦は成田空港に降り立った。しかし、しばらくの間、自分が帰国したことは秘密にしていた。フェイスブックに、あたかも自分がミャンマーにいるかのような投稿を繰り返し、モンティンダンを追う捜査の目を攪乱させようとしていたという。
まだ彼が捕まっているという確証はなかったからだ。だが、約1か月の刑務所生活の後釈放され、5月14日に帰国した北角から、裁判所でモンティンダンと会ったことを伝えられる。この際、彼が捕まった場所がチャトリウムホテルだったことも知った。保芦自身が潜伏先に使っていたホテルである。
ホテルのゼネラルマネージャーに電話をかけると、その件については答えられないと言われた。「最低限俺のことは守ったみたいなんだけど。いやぁ、ショックだった」。そう語る彼の声は、それまでのハキハキとして口調とは異なり、か細かった。
「プロモーションと言われても…」
モンティンダンが拘束されていることを知った保芦は、積極的に募金活動や講演を行うようになった。彼のフェイスブックを見ると、池袋、新宿、吉祥寺、高田馬場、中野・・・と、JR山手線と中央線沿線の駅前を転々としながら募金活動に参加している。複数の在日ミャンマー人グループを順番に回っているそうだ。
10月19日からは池袋にあるミャンマーレストラン「Sprig Revolution(春の革命)」でボランティアスタッフとして接客もしている。
このレストランはシェフ2人を除き、全てのスタッフがボランティアによって担われており、売上から経費を引いた金額が全てミャンマー支援に繋がる仕組みになっている。しかし、どうしてここまで、保芦はミャンマーのために行動し続けることが出来るのだろうか。
実はクーデターが起きた後、ミャンマーの邦人コミュニティでは、保芦のようにデモに参加する日本人に対して冷ややかな目線が向けられていた。
SNSやブログには、「日本人はデモに参加しないでくださいね」「現地の日本人の皆さん、お願いだからデモに参加するのはやめてくれ。もっと他のやり方を考えてくれ」といった言葉が並んでいた。だが保芦は、そうした意見に疑問を感じていたという。
「何人とかじゃなくて、僕らは同じ人間でしょと思ったんだ。人間が人間を殺し、自由が目の前で奪われていくのを見て黙っていられなかった。おとなしくした方が良いと考えている人はそうすればいいと思う。でも、それを強要するのは違うんじゃないかな」。
友人達と過ごした自由が奪われたことへの怒り、苦しむ人たちのためになりたいという人道的な思い。この2つが彼の活動の源泉にある。ただ、それだけではない。
「必ず僕にあるのは、こうした活動が自分のビジネスのプロモーションになるということ。他の人から、『自分のためでしょ』と思われてると感じることもあるけど、それでいいんだ。というのは、ミャンマーでのビジネスの成功を僕が夢見続けていなければ、プロモーションをしようとは思わないでしょ?僕はどこまでもミャンマーのことを諦めない」。
2月1日から現在までに至る保芦の話は、私の想像よりも遥かに劇的で、心を揺さぶられるものだった。話を聞くのに夢中で、手元のカップには生ぬるいカフェラテが半分ほど残っていた。
まだ聞きたいことはあったが、保芦はそろそろミャンマーレストランの手伝いに行かなければならなかった。「まだ聞きたいことあったら、そっちの店で話そう。接客しながらでも話せると思うし」。その言葉に甘えて、池袋駅から徒歩5分の雑居ビルに入っているミャンマーレストラン「Spring Revolution」まで歩く。
前にも来たことはあったが、正直、分かりにくい場所にあるし、フラッと入りやすい雰囲気のビルではない。保芦にその感想を伝えると、店の外の看板を指して「これだと、どういう店かよく分からないよね」と頷いていた。
私はシャンカウスエ(シャン民族の麺料理)とハイボール、それに保芦おすすめの ワッタードゥートゥ(豚を串刺しにした、おでんのようなもの)をいただいた。
かつて愛飲していたミャンマービールは国軍系の「ミャンマー・ブルワリー(MBL)」が生産しているため、店には置かれていなかった[朝日新聞,2021h]。店内の雰囲気は明るく、料理も優しい味付けで、クセが少ない。
大盛況とはいかないものの、ミャンマーに関わりのある日本人や保芦の友人が訪れ、活気はあった。私は食事を終えると、友人の方も来ているしこれ以上は邪魔になると思い、保芦に礼を言って店を出た。
帰途、東京メトロ丸ノ内線の電車に揺られながら走り書きのメモに目を通し、保芦の話を反芻していた。「何人とかじゃなくて、僕らは同じ人間でしょ」。
もちろん、全ての社会問題に目を向けるなど不可能だ。それに、保芦のような当事者とは違い、多くの人は直に何かを経験したわけではない。それでも、何らかの形で知り、関わることはできるはずだ。
第5章 当事者と傍観者の狭間で
「2月1日に起きた軍事クーデターにより、生活に苦しんでいる人たち。食事さえなく困っている子供たち。内戦で森や山の中に非難しているミャンマーの人々のために、現在募金活動を行っております。1円でも構いませんので、皆さまの力を貸してください」。
11月7日、午後1時過ぎ。JR中央線・中野駅の北口を出てすぐの所に、15人前後の在日ミャンマー人と日本人支援者が2列に並び、募金を呼びかけていた。彼らはVoice for Justice(正義のための声)というグループのメンバーだ。
といっても、NPOや大きな組織ではない。友人同士の「仲良しグループ」だ。メンバーのほとんどが2・30代で、仕事のない時間帯に持ち回りで活動を行っている。
グループのリーダーで、都内のIT企業に勤めるナイン(38)が「何もしないことにギルティ(罪の意識)を感じ」、友人たちに声をかけ5月2日から活動を始めた。それからは毎週、中野駅、高田馬場駅、巣鴨駅などを転々としながら、募金を呼びかけている。
通行人の多くは、両脇から差し出されるチラシを避けるようにして、真ん中を通過していく。ただ、時折足を止める人はいて、私がいた1時間で30人以上が募金をしていた。
ミャンマーの現状について熱心に話を聞く人もいれば、忙しそうにサッと帰っていく人もいた。バラツキはあるが1日あたり10万円ほどの募金が集まるという。クーデターから8か月以上が経った今もなお、これだけの人が関心を持ち続けているという事実に、私は希望を感じた。
「日本人で、毎週一緒に募金活動をやってくれる方もいます。外国で起こっていることなのに、色々してくれて本当に感謝しています。一番募金してくれているのは日本の方々です。なので、ミャンマーが平和になったら、今度は自分たちが日本の人のためにボランティア活動などをしていけたらと思っています」。ナインはそう、話した。
募金活動の取材をしていて、気付いたことがある。それは多様な関わり方を肯定的に捉えていくことの重要性だ。社会問題に関わるというと、声をあげたり、継続的な支援を行っていくというイメージが付きまとう。
少なくとも私はそう感じていた。だから、趣味に没頭する時間や友人との時間を優先し、ミャンマー関連の活動から距離を置いていた時、どこかで罪悪感を覚えていた。
だが、もっと緩くても良いのではないかと思うようになった。募金箱にお金を入れていく人は、多種多様である。在日ミャンマー人、仕事でミャンマーと付き合いのある人、旅行で訪れたことがある人、そして、特に関わりのなかった人。
ミャンマーという国に触れるきっかけも「お堅い」ものに限らない。最近ではミャンマーにルーツを持つ芸能人も少なくない。例えば、スティーブン・スピルバーグ監督作品『レディ・プレイヤー1』に出演した俳優・森崎ウィンの両親はともにミャンマー人だ。SNSでは、彼のファンがミャンマー情勢に関する記事やイベント告知を拡散させているのを時折見る。
福島県いわき市在住のローカルアクティビスト・小松理虔が提唱している概念に「共事者」というものがある。「当事者本人ではない。事に当たっているわけではない。けれど当事者性はゼロではなく、事を共にはしている。(中略)当事者とは別の回路を迂回して、結果として何らかの課題に関わってしまう[小松,2021,p.442]」。
「共事者」とはそのような人たちのことだ。私はまさに「共事者」的な関わりをする人を増やすことが、前に進んでいく鍵だと思っている。
小松は、「当事者」性を強調することの問題点を以下のように述べている。「『当事者』という言葉を使って困難を発信するほど、同じ課題を抱える人たちの共感は産むけれど、『非当事者』を作り出してしまうようにも思うのだ。本来は多くの人達で支えなければいけないのに外側の人が『関わりのハードルの高さ』を感じてしまったら、関わりは、当事者性や専門性の高い人に限定されてしまう[小松,2021,p.440]」。
もちろん、当事者の声は大切だし、密な関わり方をする人がいなければ活動は成り立たない。でも、もっと「中途半端な関わり方」もあって良いと思う。何もこれはミャンマー問題にどう関われば良いのか、という問いに限った提言ではない。
私たちが生きる社会は複雑すぎるし、数え切れないほどの不条理で満ち溢れている。その前提に立ったとき、皆に一つの問題に対して継続的な関心を寄せ続けことを求めるのはあまりにも非現実的だ。
批評家の東浩紀は『訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について』と題した論考の中で、以下の指摘をしている。
「現代世界はあまりに複雑である。(中略)あらゆる問題について「当事者」がいるが、人間の時間にはかぎりがある。専門家の知見も当事者の声もすべてを追うことはとてもできない。それゆえいま、多くの人々は、すべてを単純な図式――それは保守の陰謀論のこともあればリベラルの正義感のこともある――で切り取るか、あるいはすべてに無関心になるか、どちらかの状態に陥っているように思われる。それゆえぼくはこの時代においては、逆に、なにかについて中途半端に調べ、中途半端にコミットすることの価値を積極的に肯定するべきだと考えている。そのような肯定がなければ、現代人はまともに政治に向きあうことができない[東,2021,p.76-77]」。
11月19日、大学の授業を終えた私は友人2人を連れ、高田馬場駅前のとあるミャンマー料理屋に入った。テレビ番組『孤独のグルメ(テレビ東京)』にも取り上げられた名店である。
店内には東京メトロのCM撮影で来店した女優・石原さとみのポスターが貼られている。駅の出口(早稲田口)を出て、信号を渡りすぐの裏路地にあるのだが、居酒屋に吸い込まれていく学生たちはその存在すら知らないかもしれない。
扉を開け「3名なんですけど、空いていますか?」と言うと、見知った顔の店員が案内してくれた。彼とはデモの現場で出会い、話をする仲になった。ラペットゥ(お茶の葉サラダ)、モヒンガー(鯰の出汁を使った麺料理)、シャンソーセージ、それにダンパウ(タンドリーチキンご飯)を頼む。初めてミャンマー料理を食べたという友人達も、ソーセージの辛さには悪戦苦闘していたが満足してくれたようだった。
別に私は、友人たちが毎日のようにミャンマーのニュースをチェックするようになることは望まない。アクションを取らなくても良いと思ってる。彼らが関心を抱いていることに対して、私が同じ熱量で臨むことなど無理だと分かっているからだ。
それでも、ただ食欲を満たすためにミャンマー料理を食べることで、彼らは図らずとも「支援」を行っている。まさしく「共事者」となっているのだ。そうした「中途半端な関わり方」を、もっと大切にしていく必要があると思う。
「チェーズーティンバーデークミャ(ありがとうございます)」と言って、店を出た。「中途半端」の積み重ねが、いつか結実するのだという期待を抱きながら。
あとがき
ミャンマーは複雑な問題を抱えた国だ。公式に認められているだけでも135の民族が暮らしているとされている[根本,2014,p.16]。内戦も多く、今回のクーデターの影響で貧困率は5割に迫る可能性があると言われている[UNDP,2021]。
だが、その一方で魅力的な国でもある。黄金のパゴダや遺跡の数々には圧倒される。そして、何よりも親切心がある。
2019年8月に1人旅をしたとき、ホテルの従業員と仲良くなったのだが、彼はわざわざバイクの後ろに私を乗せ街を案内してくれた。帰りに空港まで送ってくれ、「またミャンマーか、日本で会おう」と言って別れたのは良い思い出だ。
本作品で描いたのは、そんな多様なミャンマーのごく一部に過ぎない。ぜひ色々な書籍やセミナー、写真展などに触れてみて欲しい。
この原稿を書いている間にも、国軍によって多くの残虐な行為が行われた。12月5日、ヤンゴンで平和的なデモを行っていた市民に国軍車両が突っ込み、その後兵士が発砲した。この際、5人が死亡したと報道されている[朝日新聞,2021i]。
同7日にはインドとの国境沿いに位置する北西部ザガイン管区の村で、11人の市民が焼死させられる事件が起きた。現地住民によって撮影されネット上に公開されたビデオには、黒焦げになった死体が映し出されている。地域住民がPDF(国民防衛隊)に協力したことが原因とされているが、虐殺以外の何ものでもない[Myanmar now,2021b]
正直に言えば、もろ手をあげてPDFを応援する気にはなれない。彼らの戦闘行為によって被害を被る市民がいることは紛れもない事実だからだ。だが、そもそも国軍が市民の声を踏みにじらなければ、彼らは武器を取る必要もなかった。元工科大学学生でPDFに参加した男性に話を聞いた時、「戦いたくないけど、戦うしかない」と言っていたが、好きで武器を手にしたわけではないのだ。
残念ながらミャンマー情勢は当分、混迷したままだろう[2]。単刀直入に言えば、眼前に広がるのは絶望だ。しかし、ただ打ちひしがれ、ニヒリズムに陥っても良いのだろうか。少なくとも、私が見てきた在日ミャンマー人の方々や他の関係者はそうは思っていないだろう。
だから、出来るだけ多くの人がミャンマーに目を向けることが、あるいは「共事者」になることが重要になってくるはずだ。本作品は、それに寄与しようとする私なりのささやかなレジスタンス(抵抗運動)であり、ノンフィクション作家・本田靖春の言葉を借りれば「野糞」であろうとする試みである。
本田は著書『我、拗ね者として生涯を閉ず』の中で、弱者の側に立つ自身のスタンスを「野糞精神」と表している。「野糞は、それ自体、立ち上がることはできず、まして、相手にとびかかって噛みつくなぞは絶望的に不可能である。でも、踏みつけられたら確実に、その相手に不快感を与えられる[本田、2007、p.314]」。ミャンマー国軍の横暴に対して、痛烈な一撃を与えることなど私には不可能であるが、せめて「野糞」ではありたい。
こうした姿勢に対して、ジャーナリズムの担い手が片方の肩を担ぐようなことをして良いのかという批判があるかもしれない。しかし、目の前で弱者が強者によって虐げられている構図があった時、「中立」を装って両論併記的に伝えていくことは正義に適うのだろうか。
「中立(の立場)を取るというのは抑圧者と同じ側に立つということです。日本の皆さんにお願いします。ミャンマーの今の問題を中立(の立場)に立って、冷静に『俺たちは関係ないぞ』という目で見ないでください。これは人類に対する犯罪です」。
これは3月14日、渋谷の国連大学前で行われた少数民族によるデモでカチン族の男性が述べた言葉だ。どの視点から物事を見るべきか、彼の言葉が物語っている。
本作品を閉めるにあたって、一学生に過ぎない私の取材に答えて下さった方々にお礼を申し上げたい。本作品の主人公である保芦さんは、忙しい合間を縫って私のインタビューに応じてくれただけでなく、在日ミャンマー人のウィンチョウさん、マティダさん夫妻とナインさんを紹介してくれた。
保芦さんは現在、ミャンマーを支援するためのNPO法人の設立に向けて奔走中だ。また、現地でカレーを製造・販売するための準備も継続しているという。彼のミャンマーに対する熱い想いなしには、この作品が完成することは無かった。本当にありがとうございました。
本作品の中ではあまり紹介できなかったが、ウィンチョウさん、マティダさん夫妻にはご自身たちが1988年に民主化運動に参加した際のことや日本に来てからの活動についても話を聞かせていただいた。
印象的だったのは、「ミャンマーの選挙に一票を投じるために日本国籍に帰化せずにいる」という言葉だ。選挙に参加する重要性をひしひしと感じた。
毎週末、募金活動を行い続けるナインさんの姿は心うたれるものがあった。仲間たちのために飲み物を差し入れたり、とにかく気配りができる方だった。もし駅前で募金活動をする彼を見かけたら話しかけてみて欲しい。きっと親身にミャンマーのことを教えてくれるはずだ。
また、PDFに参加している若者たちの話は非常に考えさせられるものだった。当たり前だと思っていた自由と平和が崩れ落ちた後、全てを捨て武器を取った彼女たちの安全と希望ある未来を願いたい。
なお、本作品では構成上取り上げる事ができなかったが、Voice for Justiceのメンバーとして募金活動に携わっている磯村さんにもお世話になった。ミャンマーとの繋がりは2回の旅行だけで、ミャンマー人の友人がいたわけでもないのに、5月から毎週末駅前で募金活動に参加し続ける姿には感銘を受けた。
そして、2月1日以降デモ現場や色々な所でお話を聞かせてくださった在日ミャンマー人の皆さん、日本人関係者の皆さんにもお世話になった。私のために貴重な時間を割いてくれた全ての方に心から感謝申し上げます。
私は2022年4月から新聞記者になる。さしたる目標も持たずに大学に入った私がジャーナリズムに関心を持つようになったのは、野中章弘先生(早稲田大学教育学部)や先生の授業で出会った講師の皆さん、それに先輩方と同級生のおかげだ。
また所属していた「無国籍ネットワークユース」の活動でも、陳天璽教授(早稲田大学国際教養学部)をはじめとする数多くの大人たちと仲間のお世話になり、視野を広げることができた。
特に本作品の根幹となっているのは、フォトグラファーの新畑克也さん、ジャーナリストの北角裕樹さん、在日ビルマロヒンギャ協会副会長のアウンティンさんとの出会いである。皆さん、本当にありがとうございました。
最後に2人のミャンマー人の方々について書き記したい。1人目はモンティンダンさんである。2021年1月現在も、彼はミャンマー国軍によって不当に拘束され続けている。モンティンダンさんとの面識はないが、クーデター後SNS上で繋がり発信を見続けていた。一刻も早い解放を願いたい。
2人目はウィンさん(仮名)である。家族や友人が危険に晒されるリスクを考慮し、本作品では紹介することの出来なかった人物だ。批判的な意見を発信するだけで、愛する人たちに危害が及びうるのが今のミャンマーだ、ということを皆さんにもぜひ知って欲しい。
最後に、ゼミの指導教官である瀬川至朗先生には本作品を制作するにあたり、的確なアドバイスをいただいた。大変お世話になりました。
本作品がミャンマーの現状を知ることに、あるいは「共事者」となることに少しでも寄与できたならば、これ以上の喜びはありません。一日でも早く、ミャンマーに真の意味での平和が訪れることを願って。
脚注
[1] ラカイン州における紛争:
2019年1月から続く、仏教徒少数民族ラカイン(アラカン)人の武装組織AA(Arakan Army)とミャンマー国軍による紛争[今泉,2019]。AAの目的の一つは自治の拡大である[東京新聞,2020]。同年10月には国軍兵士らが乗る船舶を襲撃し、兵士と一般人合わせて50人以上を拉致するなど、活発な動きを見せていた[朝日新聞,2019a]。クーデター後の3月11日には国軍からテロ組織の指定を解除されるなど、国軍と接近するかと思われていた[朝日新聞,2021a]。だが、同30日には他の武装組織と共同声明を出し、市民への弾圧を止めるようことを国軍に求めるなどしている[朝日新聞,2021b]。
[2] 中西嘉宏・京都大准教授(ミャンマー政治研究)は、2021年12月に発表した論考の中で「最初の問いに戻ろう。ミャンマーは破綻国家になるのか。おそらくならない。だが、政変前の状態にこの国が戻ることもない。危機国家の状態に陥る可能性を常に秘めた脆弱国家として国軍の実効支配が続くことになりそうである[中西,2021,p.47]」と述べている。
参考文献
■はじめに
○日本語文献
朝日新聞(2019a)、『(地球24時)ミャンマー、武装勢力が50人拉致』、10月29日
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14235451.html
朝日新聞(2021a)、『ミャンマー、少数民族めぐり綱引き NLD側、政治指針に「自治権実現」 国軍側、評議会メンバーに幹部ら』、3月23日
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14842980.html?iref=pc_ss_date_article
朝日新聞(2021b)、『「見たもの全てに発砲」ミャンマー市民の死者700人超』、4月12日
https://digital.asahi.com/articles/ASP4D7D1HP4DUHBI00K.html?iref=pc_ss_date_article
今泉千尋(2019)、『ミャンマー少数民族問題の新たな火種──仏教徒ゲリラ「アラカン軍」という難題』、11月28日、NewsWeek日本版
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/11/post-13493.php
東京新聞(2020)、『アラカン軍 新たな脅威 ミャンマーで民族感情あおり急伸』、4月20日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/25974
中坪央暁(2019)、『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』、めこん出版
○英語文献
ASSISTANCE ASSOCIATION FOR POLITICAL PRISONERS
https://aappb.org/
■第1章 最も幸せで、悲しい日
○日本語文献
朝日新聞(2019b)、『(世界発2019)スーチー氏の与党に逆風 ミャンマー、総選挙まで1年』、11月26日
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14271012.html
朝日新聞(2020a)、『(世界発2020)スーチー与党、正念場 ミャンマー総選挙、圧勝で政権2期目』、11月18日
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14699107.html
朝日新聞(2020b)、『大臣と議員に軍人枠 選挙圧勝でも笑えないスーチー与党』、11月21日
https://digital.asahi.com/articles/ASNCM3FGWNCCUHBI01B.html
朝日新聞(2021c)、『国軍、スーチー与党へ揺さぶり ミャンマー、選挙大敗で焦りか』、1月31日
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14783654.html
朝日新聞(2021d)、『スーチー氏拘束、文化人にも波及か 識者がみた軍の意図』、2月1日
https://digital.asahi.com/articles/ASP215RP4P21UHBI02B.html
朝日新聞(2021e)、『ミャンマー軍がクーデター 「選挙で不正」主張 スーチー氏ら拘束』、2月2日
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14785440.html
朝日新聞GLOBE+(2018)、『かつてケシ畑、いま合成麻薬 薬物から抜け出せない「黄金の三角地帯」』12月6日
https://globe.asahi.com/article/11989521
Global News Asia(2020)、『【ミャンマー】国会の22選挙区で投票中止 治安悪化で候補者3人誘拐』、10月27日
https://globalnewsasia.com/article.php?id=6764&&country=4&&p=2
久保忠行(2014)、『カレンニーとカヤー:2つの「名」をめぐって』、アジア平和構築イニシアティブ、2月5日
中西嘉宏・長田紀之(2016)、日本貿易振興機構アジア経済研究所、『2015年ミャンマー総選挙:国民民主連盟(NLD)の歴史的勝利
https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2016/RCT201601_001.html
長田 紀之(2020)、日本貿易振興機構アジア経済研究所、『(2020年ミャンマー総選挙) 選挙結果速報――国民民主連盟が再び地滑り的な勝利』、11月
https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2020/ISQ202020_036.html
根本敬(2014)、『物語 ビルマの歴史』、中央公論新社
○英語文献
Frontier Myanmar(2020)、『Shan State’s controversy-filled election delivers a hung hluttaw』、20 November
https://www.frontiermyanmar.net/en/shan-states-controversy-filled-election-delivers-a-hung-hluttaw/
The Asia Foundation(2020)、『2020 GENERAL ELECTION:STATE AND REGION HLUTTAWS』、18 November
https://asiafoundation.org/wp-content/uploads/2020/12/Myanmar_2020-General-Election-State-and-Region-Hluttaws.pdf
■第2章 笑顔と恐怖
○日本語文献
北川成史(2021)、『ミャンマー政変』、筑摩書房
タンミンウー(2021)、中里京子訳、『ビルマ 危機の本質』、河出書房新社
永杉豊(2021)、『ミャンマー危機 選択を迫られる日本』、扶桑社
根本敬(2014)、『物語 ビルマの歴史』、中央公論新社
○英語文献
Myanmar now(2021a),『‘Help me, Mother’–Mandalay resident shot and burnt alive by junta’s troops』,Mar28
https://www.myanmar-now.org/en/news/help-me-mother-mandalay-resident-shot-and-burnt-alive-by-juntas-troops
The Washington Post(2021),『Myanmar is descending into chaos. A Yangon neighborhood is in the eye of the storm』,Mar18
https://www.washingtonpost.com/world/2021/03/18/myanmar-protests-deaths-military-coup/
■第3章 国際社会の対応と国軍
○日本語文献
朝日新聞(2021f)、『国連安保理、デモ弾圧を非難 ミャンマー情勢で議長声明』、3月11日
https://digital.asahi.com/articles/ASP3C31QSP3CUHBI00J.html
NHK(2021a)、『「ミャンマーのクーデターを読む」(視点・論点)』、2月15日
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/443903.html
川西晶大(2007)、『2「保護する責任」とは何か』、レファレンス2007年3月号 第Ⅰ部 平和構築の枠組み
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999766_po_067402.pdf?contentNo=1
タンミンウー(2021)、中里京子訳、『ビルマ 危機の本質』、河出書房新社
中西(2009)、『軍政ビルマの権力構造』、京都大学学術出版
日本経済新聞(2021a)、『ミャンマーでクーデター 国軍が全権掌握』、2月1日
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM010DQ0R00C21A2000000/
根本敬(2014)、『物語 ビルマの歴史』、中央公論新社
根本敬(2021)、「危機のなかのミャンマー 機能しない仲裁外交から表的制裁へ」、『世界』2021年8月号、岩波書店
○英語文献
The New york Times(2021),『Inside Myanmar’s Army:‘They See Protesters as Criminals’』,Sept.14
https://www.nytimes.com/2021/03/28/world/asia/myanmar-army-protests.html
■第4章 友人達の拘束と帰国
○日本語文献
朝日新聞(2021g)、『ミャンマー国軍、日本人外交官宅押し入り 外務省が抗議』、7月4日
https://digital.asahi.com/articles/ASP7376NZP6ZUHMC006.html
朝日新聞(2021h)、『キリン、ミャンマーの事業に暗雲 国軍系企業が合弁会社の清算を申請』、2021年11月25日
https://digital.asahi.com/articles/ASPCS63XBPCSUHBI00H.html
TRAICY(2021)、『ANA、ヤンゴン発成田行きの運航経路変更 4月23日、那覇経由』、4月12日
https://www.traicy.com/posts/20210412206119/
水谷竹秀(2021)、『国軍に拘束…日本育ちのミャンマー人映像作家が撮った「緊迫写真」』、8月6日、FRIDAY DIGITAL
https://friday.kodansha.co.jp/article/197812
■第5章 当事者と傍観者の狭間で
○日本語文献
東浩紀(2021)、「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」、『ゲンロン』12,p.32-105
小松理虔(2021)、『新復興論[増補版]』、ゲンロン
■あとがき
○日本語文献
朝日新聞(2021i)、『軍の車両、デモ隊の後ろから突っ込み発砲 ミャンマーで5人死亡』、2021年12月5日
https://digital.asahi.com/articles/ASPD56FJLPD5UHBI01W.html
中西嘉宏(2021)、「ミャンマーは破綻国家になるのか 政変後の混迷と新たな展開」、『国際問題』No.704、日本国際問題研究所
https://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2020/2021-12_006.pdf
根本敬(2014)、『物語 ビルマの歴史』、中央公論新社
本田靖春(2007)、『我、拗ね者として生涯を閉ず(上)』、講談社
○英語文献
Myanmar now(2021b),『Junta soldiers massacre and burn 11, including teenagers, during raid on village in Sagaing』,Dec 7
https://myanmar-now.org/en/news/junta-soldiers-massacre-and-burn-11-including-teenagers-during-raid-on-village-in-sagaing
UNDP(2021)、『Pandemic and political crisis could result in half of Myanmar’s population living in poverty by 2022, UNDP says』,April 30
https://www.undp.org/press-releases/pandemic-and-political-crisis-could-result-half-myanmars-population-living-poverty